何故に新刊本なのか。

断片記憶

このブログを見ても2016年、2015年が多い。新刊本ばかりである。本屋に並べられた本を素直に買っているのである。本を選んでいないのだろう。吟味していないのだろう。そんな声が聴こえるような気がする。

本当の本に出会えるのは図書館かもしれないと思う時がある。手にとって感じる。ぱらっとめくる。真剣勝負だ。読むに値するかを判断する。そうして10冊持って帰るが、結局は読めずに終わる。読むには読み手のパワーも必要だ。

本は選ぶが、自分の場合、そんなに肩に力は入っていない。目に付いた本を選んで持ち帰ることで、人生の大半を過ごしてきた。

従って、選ぶ眼は鍛えられていないため、何で買ったのか分からない本も多い。読まないのなら処分すればよいのだが、ものぐさなので、溜めてしまう。そのうち、片付けてくれる人が現れて定期的にスペースができる。空いたスペースに段ボールを積んで、月毎に買った本を入れている。購入月で整理している。そう、ブログの書籍目録がそれである。

本は古典を読めという人がいるが、私にはとても読めたものではない。今を生きている私がリアリティを感じられないものは読む気になれない。読み継がれる本はその都度、読まれるものだ。時代、時代で読まれかたは変わる。現代のようなマスの時代は、読み方は継承されない。源氏物語もレイプ小説と批判される時代である。

『構造主義のかなたへ』と戻るか、『杜甫全詩訳注』を通読しようか。私の問題意識次第である。

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