宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫、2000年、2004年第6刷
「私は経書を読むたびに何時も感ずるのだが、経とその注釈とは必ずしもぴたりと一致するものでなく、一応は別物なのである」(P343)。
「後語」を読んだときは当たり前のことを書いていると思って気にもとめないでいた。今回ひさびさに読み返してみて、感じることがあった。
経書は言葉が簡潔過ぎて注釈書で補なわなければとても読めない古典である。抽象度の高い文章には前提となる考えや書かれている状況が不明なことが多い。そこを補うため注釈書には書いた人の思想が入ることになる。この辺りは吉川幸次郎の『読書の学』の考え方に近い。どのような事実についての議論なのか分からなければ真意を読み取ることが難しいのである。しかし、宮崎市定はテキスト批判を通じて「原始論語」に遡ることを志向している。後代に付け加えられた注釈を区別し「原始儒教」のあり方を明らかにしようとする。「原始論語」を明らかにするためには考古学的発見に期待するしかなく、誤りを含んだテキストを直すことも解釈の一つと考えられる。現状のテキストから「原始論語」に遡ろうとするには限界があるといえる。私は子安宣邦先生の言うように言説がどう読まれてきたかを明らかにすることでよいと思っている。
もう一つは、経書を読むことが学問ではなくなった時代に生きる我々にとって、古典として相対化した経書との関わり方も自ずと異なるということである。柳田國男の『退読書歴』を読んでもそう感じたが、より時代が下がった宮崎市定の書き方はより具体的だ。
「しかし現今は時代が変った。もはや経書を読むことが学問の最大目的ではなくなった。為すべきことは外にいくらでもある。もはや頭の体操のために経典を読む時代ではない。むしろ不自然な古典の読み方のために、自然な頭の働きをこわしたり、思考方法を傷けられぬように注意しながら、限りある時間でなるべく多くを読みおわることが要求されているのだ。古典を能う限り読みやすくして後世に伝えることが、現今の我々研究者に課せられた義務と言うべきであろう」(P345-346)。
學而第一で「学而時習之」の「之」は「礼」のことであり、温習会だと云うのが新鮮である。「史記孔子世家に、諸生は時を以て、礼を其家に習う」(P2)とある。そこいらの論語訳は「之」が曖昧であり取るに足らない。谷沢永一の言う通りである。
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