渡辺淳一『私の京都』講談社文庫、1992年
小説家のエッセイである。以前はよく読んだが、小説そのものをほとんど手にしなくなった。京都が少し遠くなった気がして、寂しさを感じたとき、都をどりの衣装のブックカバーに目が止まったのである。
渡辺淳一が「作家のフランチャイズ」に札幌、東京そして京都を加えたことを書いている。
「数日、訪れただけの街は短編に書くことはできても、長編に書くことはできない。長編に書くためには、その街の四季のすべてを、書斎にいながらにして実感できなければならない。それもたんに暑さや寒さだけでなく、その街のある季節の、風の強さから雲の動き、山の姿からビルの高さまで、自ずと目に浮かばなければならない。作家がフランチャイズを多く持つことは、それだけ作品の幅が広がり、情景描写が多彩になることである」(P67)。
さて、その方法論となると難しい、毎月のように京都へ行き、小説に必要と思われる個所をあらかじめ廻った程度ではダメである。
「たとえば夕暮れの比叡山はどのように暮れていくのか、西の愛宕山(あたごさん)のほうは夕焼けになるが、それを受けて比叡山も変わるのだろうか。さらにそのころ、月は東山のどのあたりにあるのか。北大路にある並木はプラタナスであったかどうか、そしてプラタナスだとすると、その並木はどのあたりにまで続いていたか。これらは取材のときには見逃していて、書く段になって急に気がかりになってきたことである」(P69)。
渡辺淳一の創作の方法の一端に触れるような文章である。
もっとも難しいのは言葉遣いである。住む地域や世代で違うのは私も感じている。テレビや映画で違和感を覚えるのは言葉遣いである。まして、花街である祇園に息づく言葉を理解することは難しい。そのため渡辺淳一は祇園へ通って芸妓や舞妓達の言葉を耳に馴染ませたというが、税務署からは必要経費と認められなかった。
注)愛宕山は「あたごやま」と云う。一般的には「あたごさん」でよい。
注)プラタナスは近時見かけなくなった。北大路通はトウカエデに置き換わっている。
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