『落日の豊臣政権』(2016)その2

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河内将芳『落日の豊臣政権 秀吉の憂鬱、不穏な京都』吉川弘文館、2016年

不穏な京の町

喧嘩

豊臣秀次の小姓と細川幽斎の右筆が豊臣秀次の御弓の衆と口論におよび殺害され、御弓の衆は逐電し、「京中屋サガシ」にいたったという。この「京中屋サガシ」が凄まじい。各町毎に請文を提出させ、自主的に「屋サガシ」させたのである。奉行衆の捜査の結果、1人が逃亡先から立ち帰り切腹した。8人が三条河原で御成敗されたという。文禄の役の逃亡者にも宿を貸さないことを誓わせた誓紙血判もあり、奉行衆の姿勢はかなり厳しいものであった(P72)。

河内将芳氏は、「口には出せないものの、対外戦争に対する人びとの厭戦感というものがあったのではないかと思われる」(P72)という。請文や誓紙血判などが洛中洛外のすみずみにまで強要されたり、御袋と呼ばれた淀殿の懐妊の雑説から豊臣家の世継ぎをめぐる政情不安がある、生きづらい世の中を活写する。

辻切り・盗賊

喧嘩だけでなく、辻切り・盗賊がなどの物騒な出来事が論じられる。

「文禄2年10月9日の夜、「本百万遍町南の辻」において辻切り事件がおこった」(P78)。どこだか見当がつけば話しが早い。百万遍知恩寺は天正19年(1591)にはじまった京中屋敷かえによって、現在の場所に移動した。元の場所は聚楽第の前、一条戻橋の近くであることは、河内将芳氏の『歴史の旅 戦国時代の京都を歩く』(2014年)で読んだばかりだった。豊臣秀次の居城の近くである。ここでも各町から請文が出された。豊臣政権の探索方法は自ら「屋サガシ」させて報告させる。この犯人は分かっていない。

読んでいくと石川五右衛門が出てくる。三条河原で釜茹でにされたことは当時の資料から分かるが、当時の盗賊が、巾着を切って金を取るだけでなく、相手も殺害するという物騒な集団であったことは知らなかった。

#河内将芳 #歴史 #中世史 #京都

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