『『教行信証』を読む』(2010)を読み直し始める(その6)

読書時間

山折哲雄『『教行信証』を読む 親鸞の世界へ』岩波文庫、2010年

第五章 未決の課題

第五章の最後は「真仏土」とは何かが語られる。

「真仏土とは何か。まず「仏」は無限の「光」に包まれた如来。「土」は、無量の「光」が降りそそぐ浄土だ。この「仏」も「土」も、広大な慈悲のおかげで生みだされたもので、真実の報仏、真実の報土という」(p.182)。

絵画的な表現である。そして、どこかで見てきたような記憶もある。「報土」は「報身仏」である阿弥陀如来の誓願に報いて現れた浄土である。

「なるほど、凡愚の者のとうていおもむくべき世界ではないことがわかる。無限の光明と寿命にめぐまれた理想郷であることが一目瞭然である」(pp.182-183)。

では、凡夫であるわれわれはどこへ往くのか?

「というのも「真仏土」は、凡夫、凡愚の者がストレートに往くことのできる仏国土ではなかった。「出家修道」の契機が必要とされているからだ。それでは凡夫、凡愚の者のおもむくべき浄土は、どこか。「化身土」である、というのが親鸞の出した解答だった」(p.184)。

さて、「化身土(けしんど)」にまいろうではないか。

第六章 幻想の浄土 ー「化身土」ー

山折哲雄氏は「浄土教学に個有(ママ)の神学用語が頻出する」(p.193)と言う。確かに、この第六章は難しい。

「「化身土」とは何か。幻想の浄土、ということだ」(p.188)。

「化身土とは何か。化身土には幻想(化身)の「仏」が坐すが、それは「観無量寿経」に説く仏のことだ。また、化身土の「土」とは幻想(化土)の浄土のことで、これまた「観無量寿経」に説く浄土を指す」(p.189)。

山折哲雄氏は「化身土」の問題をどう解くのだろうか?

「まず、「化身土」の問題は「観無量寿経」の問題だと言っていることに注目しなければならない。その根元に、悪人往生の課題が横たわっていることは言うまでもない」(p.190)。

この後は「懺悔三品」という懺悔の種類や「三願転入」という信仰告白が論じられる。

第七章 葛藤と自覚 ー「化身土」から「後序」へー

まとめである。

『教行信証』は「教」「行」「信」「証」「真仏土」「化身土」からなることが振り替えられる。

山折哲雄氏によれば、「ここで親鸞が、本書を著わしたのはひとえに「真宗」と「浄土」の本質を明らかにするためであって、何ら「人倫のあざけり」を恥じるものではない、と言っていることに注目しなければならない」(p.232)と言う。

師の法然を乗り越えるべく、「すなわち五逆と誹謗正法をめぐって、「大無量寿経」「観無量寿経」そして「大般涅槃経」の三つの経典」(p.215)を「読み抜いて「大無量寿経」の除外規定を解除し、悪人往生の道筋をつける」(同上)のだった。

「法然門からの反論もしくは誹謗中傷を浴びる原因となったのではないだろうか。それだけではない。『教行信証』という作品が同時代の知識人たちから無視され、闇のなかに葬られてしまう契機になったのかもしれない。何よりも、この作品にたいする同時代的な証言がほとんど残されていないことにも、そのことがうかがわれるのではないか」(同上)と言う。

『教行信証』の入った段ボール箱を探し出したいと思う。

コメント

タイトルとURLをコピーしました