よみがえる名所 押上最教寺の世界

散歩時間

よみがえる名所 押上最教寺の世界 ーかえってきた仏像たちー すみだ郷土文化資料館 2025年10月4日(土)〜2025年12月7日(日)

「みやこどり」第72号2025年(令和7年)8月号は企画展よみがえる名所 押上最教寺の世界だった。

最教寺の複雑な経緯をコンパクトにまとめてある図録の文章を引用しよう。

「天松山最教寺(東京都八王子市宮下町一四四)は、かつて墨田区に所在した身延山久遠寺末の日蓮宗寺院である。寺伝や地誌類によれば、十七世紀初期に上野池之端より押上村へ移転したと伝えられ、名高い江戸の名所であった。安政二年(一八五五)の安政江戸地震、大正十二年(一九二三)の関東大震災の二度の震災によって壊滅的被害を受け、大正十四年に豊多摩郡杉並村大字高円寺(現・杉並区和田三丁目)へ移転し、その後、環状七号線の敷設に伴い、昭和四十年(一九六五)に現在地に移転した」(p.58、「描かれた名所 ーー天松山最教寺に関する基礎的研究ーー」資料館学芸員小山貴子『よみがえる名所 押上最教寺の世界』(2025年))。

寺伝によれば、「千姫の法号「天樹院殿栄誉源法松院」と日崇の房号「最教房」にちなんで、天松山最教寺とし、開山に師の身延山久遠寺第27世日境を迎え」(「みやこどり」小山貴子)たという。

「最教寺の旗曼荼羅については、弘安の役にあたり日蓮が書いたと伝えられた日月一対の旗曼荼羅のうちの一幅である」(p.37、『よみがえる名所 押上最教寺の世界』(2025年))。

宇都宮貞綱が日蓮の旗曼荼羅を立てると、大風が起きて蒙古の軍船が沈んだという神風神話はどこからきたのか。

智寂院日省の『本化別頭高祖伝』享保二十一年(一七三六)が日蓮の伝記類の旗曼荼羅伝承の初見(p.43、『よみがえる名所 押上最教寺の世界』(2025年))とあるので、江戸中期になってからの話であった。

「現在では、最教寺の三十代住職茂田井教享氏(立正大学日蓮教学研究所所長・立正大学名誉教授)の調査によって日の旗曼荼羅と日蓮の関連については否定されている」(p.37、『よみがえる名所 押上最教寺の世界』(2025年))。

押上最教寺の世界

よみがえる名所 押上 最教寺の世界

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