「妙法院門跡と豊臣秀吉の千僧供養会」

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「蓮華 仏教文化講座たより」妙法院門跡、vol.102 2022を捲っていくと、再度、千僧供養という言葉が目につきました。
下坂守「妙法院門跡と豊臣秀吉の千僧供養会ーー「妙法院殿の傍なる経堂」の歴史」第五四八回仏教文化講座令和四年四月二十四日(日)
髙橋康夫氏の話題と同じです。庫裏が改修中なのでテーマになりやすいのでしょうか。
歴史家の下坂守氏は妙法院に巨大な庫裏(くり)があることが不思議だと言います。「門跡とは本来、身分の高い主人僧(門主)とそれに仕える少数の従者(弟子・坊官〔寺務僧〕や侍)だけが居住するところ(御所)だったからです」(p.28)。確かに、妙法院門跡も特別公開の時に最初に案内されたのが大きな庫裏でした。妙心寺の大庫裏を見たときも太い柱に圧倒されましたが、妙法院の庫裏も大きなものでした。この国宝の庫裏が豊臣秀吉が大仏千僧供養会のために建てた経堂の遺構という話でした。
豊臣秀吉が千人(実際には800人)の僧を集めて千僧供養会を文禄四年(1595)九月に始めた話は河内将芳氏の『秀吉の大仏造立』(法藏館、2008年)を読んでいましたので、ある程度頭に入っていました。下坂守氏は京都にかつて大きな経堂が二つあったといいます。北野経王堂とこの大仏経堂です。足利義満が北野に建立した経堂で明徳の乱の供養のため「北野万部経会」を始めたのはどこかで読んだ気がします。「同会は応仁の乱によって中絶しますが、「経王堂」と名付けられたこの経堂は兵火を逃れ、十七世紀後半に朽ち果てるまで北野に建っていました。現在、大報恩寺(千本釈迦堂)に所在する「北野経王堂」(再建堂)は、その余材で建てられた建物です」(pp.28-29)。
千本釈迦堂は何度か足を運んでみたことがあります。千本釈迦堂の門を潜ると左手にある建物の表札には「北野経王堂願成就寺」とあり、この小さな建物が北野経王堂の名残なのでした。髙橋康夫氏は豊臣秀頼により慶長十一年(一六〇六)に再興されたと書いてました。当然、下坂守氏も触れているのでしょうが要約からは伝わらないので、聴講しないとわかりません。上京区のページをみると、観音堂と書いてました。鰐口が吊るされていたのを見た覚えがあります。北野経王堂願成就寺は大報恩寺の末寺となっていたので一切経などが伝わったのでした。
さて、北野経堂では食料(じきりょう)を出していたのに対して秀吉の大仏経堂では斎(とき)を当初出していたというので、大きな庫裏(台所)を必要としたわけでした。慶長九年(一六〇四)の「豊国祭礼図屏風」(重要文化財、豊国神社蔵)にある大仏経堂の隣りの煙突を抜く越屋根(こしやね)のある建物が庫裏で妙法院へ移築される直前の姿を描いたものと判定したのでした。元和年間(一六一五〜二四)に制作された洛中洛外図屏風(大阪市立美術館蔵)では、「大仏経堂と庫裏の位置は、豊国神社蔵「豊国祭礼図」とは逆になりますが、「越屋根」の横には「めうほうゐん(妙法院)」という付箋が貼られており、この屋根が移築後の庫裏を描いたものであることがわかります」(p.30)。
妙法院庫裏の話題が、ひと月はさんで講演されました。建築と歴史と専門は違っても論証の仕方は同じでした。

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