上山春平『埋もれた巨像 国家論の試み』岩波叢書、1977年、1978年第2刷
著者の注文にしたがって、難渋したというⅡとⅢを読む。私は暇人である。
Ⅱ 法華寺の維摩
藤原鎌足が始めた維摩会が途絶えていたのを再興したのが藤原不比等である(『尊卑分脈』)。上山春平は維摩会についていくらか立ち入った考証を試みている。万葉集の第8巻1594 番の作者不明の仏前の唱歌一首について前後の歌から天平年間の歌であることがわかるとしている。光明皇后の維摩会で唱われたとする可能性を指摘しているのだ。そこで祀られた維摩像は、現在の本堂の西南隅にまつられている維摩像であるのかどうか。残念ながら制作年代は天平後期(久野健『平安初期彫刻史の研究』(吉川弘文館、1974年))だという。維摩像のモデルとしての藤原不比等の可能性についても言及していた。一つの仮説を提示したわけだが、読む限りでは無理であると思う。しかし、この維摩像から受ける印象から、他の維摩像との比較をしてみたくなった。
Ⅲ ウナタリのタカミムスビ
万葉集巻3の378番の歌
古(いにしへ)の 古き堤は 年深み
池の渚に 水草生ひにけり
山部赤人の歌から始まる。山部赤人が故太政大臣藤原不比等の邸宅の庭を詠んだ歌である。藤原不比等は右大臣で薨去後に太政大臣を贈られている。
山部赤人に関する本は梅原猛『さまよえる歌集』(新潮社)くらいしか読んだことがないので、怨霊思想に偏った梅原猛の解釈しか知らなかったが、今ならば少し冷静に読めるかも知れない。仮説を立てるのは良いのだが、検証の仕方が強引すぎたのである。上山春平はその点は踏みとどまっている。
赤人が故藤原不比等の邸宅の池の荒れたのを詠んでいる。この時代であれば、白い玉石を敷き詰めて作られた州浜状の渚に草は生えていないはずである。それが主人がなくなって手入れが行き届かなくなってしまったのか、水草が生えているのに気がついたのである。万葉集の回想の歌はこういう荒廃感覚が伝わる。赤人は生前の藤原不比等の邸宅を訪れたことがあり、この時も回想しているのである。今の景色を見ながら過去を回想する詩人の歌であることは確かである。
平城宮の東側の張出し部分にある宇奈太理坐高御魂(ウナタリニマスタカミムスビ)神社のある森をウナタリの森と呼ぶことから本論に入っていく。法華寺となった旧藤原不比等邸はこの東側にあるのである。
問題は宇奈太理坐高御魂神社が以前からこの地にあったかどうかである。上山春平は宇奈太理坐高御魂神社が藤原道長の時代には別の場所にあったという新説を取り上げる。しかし、よくよく吟味すると、菟足社の神田が春日荘にあったことは、神社が必ずしもその地にあったわけではないとの結論に達して、以前から平城宮の東側の張出し部分にあった説にもどる。そして、法華寺の維摩とウナタリのタカミムスビの現存する形を「不比等曼荼羅」(p.112)と呼ぶのであった。
資料として、中臣祐房「春日社注進状」、ウナタリ社関係の東大寺文書、赤松俊秀氏宛の手紙(1974年9月29日付)(pp.113-144)が掲載されていた。春日社注進状は他に掲載されていない貴重な史料である。
「とりわけ手こずった」(v.iii)という ⅡとⅢは、哲学者の上山春平の検証能力を示すものではあっても、論題を不比等に結びつける決め手はないと思う。
まえがきに戻る。
「私が「不比等曼荼羅」とよぶのは、不比等の私的な姿と公的な姿の象徴と解される維摩とタカミムスビ神が、それぞれ、不比等の邸宅を寺院に転用した法華寺と、律令国家のセンターとしての平城宮の宮域内に、隣接してまつられている現状をさしているのですが、この現状を「不比等曼荼羅」としてとらえるに至るまでの過程が、難渋をきわめたのです」(viii)。
40年以上経って読み直しているが、以前に読んだ自分がいるとは思えない。
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