選択、好みを知ること

Goinkyodo通信 断片記憶

養老孟司氏により、自分探しは虚しいものと知ったので、その手の話に乗らないようにしている。自分は食べ物の好き嫌いのない人間だと口では言ってきた。本当にそうかどうかはわからない。ただ、出されたものは残さないという躾の下で育ったことは確かだ。他人の前では好き嫌いを言わないことを上司に言われて仕事をしてきた。好き嫌いは固定的なものではないし、年齢や体調によっても変わるであろう。味覚における選択というものを考えても、人間の分類力はいい加減なものである。簡単に騙されてしまう。五感を鍛え直そうと思ったことは以前に書いた。特に嗅覚は言葉でどう現せるか気になるところである。

歌の良い悪いという判断はプロの歌人がすることだが、スタイルとしか考えられないものもある。好きなものに対するこだわりが自分にあるのかないのか、思い出したように歌集を手に取ってみることにした。歌集というところに「享楽的こだわり」があるといえばあるのではないか。

塚本邦雄が藤原定家の拾遺愚草から良い歌を選ぶことを書いていて、私もやってみたが、すぐに行き詰まった。アンソロジーなどそう簡単に編めるものではない。試験の採点の時も、最初の50件くらいの結果から、採点の基準を見直すことをする。普通はこういうことは考えないかもしれないが、結果が正規分布にならなければ採点の仕方が偏っていると考えるのである。以前も古今和歌集の秋くらいまでいって疲れてしまった記憶がある。心に響くものはなくて当たり前だということを受け入れるのは難しい。題詠の世界に素直な心を詠むことが無いことを確認したことでよい。古代の人と感動の質が違うのである。

知識と違い出力を伴うものは身につかなければ意味がないので、身につけるまでやろうと思うことしかやる気にならない。加齢が自分に作用していることも感じるので、新しいことに気が進まない老人たちのこともわかるようになった。

注)
「享楽的こだわり」は千葉雅也『勉強の哲学 増補版』(文春文庫、2020年)の第二章で示唆を得た。

アジサイ

コメント

タイトルとURLをコピーしました