木暮理太郎『山の思ひ出』龍星閣、1939年、1941年再版
深田久弥が木暮理太郎のことを書いていたのを読んで懐かしくなって木暮理太郎の本を探した。この上下巻のクロス張りの本は残念ながら、中が破けていて美本ではない。
上巻に「皇海山紀行」があった。
大正八年十二月の山行記は同行が藤島君とあるが、深田久弥によれば、藤原敏男である。
例によって、山名の由来が考察される。古くは「さく山」といった。これが、スカイになるのに、木暮理太郎説は「さく山」→「笄(コウガイ)山」→「皇開山」→「皇海山」。ただし、スカイと読むのは「皇は「すめ、すめら」と讀むから皇海をスカイと誤讀することは有り得やう」(P289)とする。
深田久弥は『日本百名山』(1978)では「サク山は笏(しゃく)山から来たのではないか」(同、P171)としている。
十一月十六日に東武線の淺草驛を出発して、足尾線の原向(はらむこう)驛で下車して、原には宿がないので、北のギリメキで宿をとった。国土地理院の地図を見ると庚申川が渡瀬川に合流するところに「切幹」という地名が見える。翌日は原まで戻り登山開始なのであるが、あいにく雨である。五万圖を頼りに登るが、植林のための道が終わってから道なき道となる。視界がきかない上に磁石も持ち合わせていなかった。間違いなく遭難コースである。現在地を見失い野宿となった。
翌十八日、下って人家に出て、場所を尋ねると砥澤という。飯場に泊めてもらい、十九日に皇海山の登頂を果たす。その日は鐡策運転所の事務所に泊めてもらい、二十日に銀山平を経由して、原向驛から淺草驛まで帰ったのであった。4泊5日の山旅であった。
木暮理太郎の「釜澤行」を読むとどうしても田部重治を読みたくなる。同行者だった田部重治の「笛吹川を遡る」を探すのはちと難しい。
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