『「維新」的近代の幻想』(2020)

読書時間

子安宣邦『「維新」的近代の幻想』作品社、2020年

書誌情報

2018年4月から2020年2月までの大阪と東京での市民講座の内容を本にしたもの。全16章からなる。第15章までは市民講座で、第16章は北京大学での講演である。これもすでに6月の市民講座で話された内容だ。

本になったことだし、手元の講義資料はデジタル化して、処分しよう。テキストは先生のブログにあるし、何より昭和思想史研究会の田中敏英氏が引用をチェックをしてくれたので、本が一番だ。

毎回2時間半の講義の内容も本になると、スッと読めてしまう。油断しないことだ。

第1章「王政復古」の維新ーー津田左右吉「明治憲法の成立まで」を読む

津田左右吉「明治憲法の成立まで」『心』1959年6月・10月を読むのに、『津田左右吉全集』第8巻を読むべきだろう。しかし、私は『維新の思想史』(書肆心水、2013年)の方で読んだ。新漢字標準字体で真仮名遣いでルビが振ってあるためでる。そのことは、2017年12月28日の2017年12月購入図書および2017年12月25日『維新の思想史』(2013)で書いたと思っていたが、ブログを確認して、記憶というか思い込みの怖さを改めて感じた。『津田左右吉全集』第8巻も2018年2月購入古書にあるので、後で確認したに違いない。記憶は既に曖昧で、ブログから分かること以上のことはない。

本書は津田左右吉の「明治維新」を封建反動的な性格をもった政権奪取のクーデターと否定的にみる見方と三谷博氏の『維新史再考』(NHK出版、2017年)にみるクーデターを日本近代化のために高く評価する見方が対比される。

三谷博氏の著者は購入してないので、本書を引用する。「徳川慶喜が新政府の首班となっていたならば、新国家は王政下の連邦の域に留まったことであろう。王政復古を機として公議と集権と脱身分を狙う点で、二つの王政復古案は同じ方向を目指していたが、薩・長による徳川権力への挑戦と破壊は、より急進的かつ徹底的な変革を可能としたのである」(P23)。

これに対し、津田左右吉の方も本書を引用する。「オオクボが君権の強大を標榜し、イハクラが確然不動の国体の厳守を主張しているにかかわらず、その実、彼等が維新以来ほしいままに占有してきた政権の保持を画策するに外ならなかったことを示すものである。彼等の思想は、皇室と政府とを混同し、政治の責を皇室に帰すことによって、みずから免れ、結果から見れば畢竟皇室の徳を傷つけるものだからである。そしてそこに、いわゆる王政復古または維新が、その実少なくとも半ばは、皇室をも国民をも欺瞞する彼等の辞柄であり、かかる欺瞞の態度を彼等が明治時代までもちつづけてきた証迹が見える」(P29)。

極端な意見を並べると、ことの本質が見えてくる。日本の近代化というものの評価の違いが見て取れるのである。

時間になったので、第2章は次の機会にしよう。そう言ってそのまま忘れて、本を読み終えてしまえば書くことがなくなる。なぜなら『維新の思想史』の「明治憲法成立まで」を読み始めたからである。津田左右吉が断然面白い。

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