『白』(2008)その3

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原研哉『白』中央公論新社、2008年

第三章

空白の意味

「空白」は「未来に充実した中身がみたされるべき「機前の可能性」として示される場合が多く、そのような空白の運用はコミュニケーションに強い力を生み出す」(P38)。

長谷川等伯 松林図屏風

長谷川等伯の六曲一雙の屏風である「松林図」は国宝として東京国立博物館に保管されて、正月に公開される。「この作品の中には様々な白や空白が運用されている」(P39)と原研哉氏は云う。

今年は「松林図」を見なかったのが悔やまれる。やはり正月は博物館で初詣をしなければと思う。

満ちる可能性としての空白

「何もないということは、何かを受け入れることで満たされる可能性を持つということである」(P41)。

日本の神社は「代(しろ)」あるいは「屋代(やしろ)」として「空白を抱く」という基本原理からなる。四隅に立てた柱の頭頂部を注連縄で結べば「代」であり、その上に屋根を載せれば「屋代」である。空白を宿す。

伊勢神宮と情報

「白は色の不在であると同時に、空白の象徴でもある」(P44)。

原研哉氏は「伊勢神宮の建築は、南方ポリネシア系の建築様式の影響を受けているように見える」(P45)。

伊勢神宮は二十年ごとに式年造替するため、「二十年に一度、新旧二つの建築が並列する」(P45)。

「造替という営みは、一度建築をカオスへと戻し、そこから新たに、技の伝承という生成装置を経て立ち上げ直していく刷新のプロセスである」(P46)。

「ポリネシア風の建築は、きりりと簡潔な日本流に変容を遂げたのである」(P46)。

ここまで読んで、ポリネシアに引っかかってしまった。『白百』(2018)も「80 伊勢神宮」が取り上げられていて、ポリネシアという言い方に変わりはなかった。

井上章一氏の『伊勢神宮と日本美』(講談社学術文庫、2013年)を読んだ記憶では東南アジアはあったがポリネシアはなかった。原研哉氏が書いているだけに、気になるので、探して読み直すことにする。

『白』(2008)その4へ続く

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