歴史科学協議会『歴史評論』2020年4月号
Amazonでポチって翌日に来た。
特集が西洋近代史の「新しい古典」を読むとあって、1970年代から1980年代に書かれた日本の西洋近現代史研究の著作が6冊紹介されていた。
日本史研究688号(2019年12月)の特集「戦後歴史学の著作を読む(5)」には新書がとりあげられていたため取り寄せて読んでみた。これは読み応えがあった。その味を覚めてポチってみたわけだ。西洋近現代史の著作の紹介を読んで歴史学の流れを知るのに手頃だと思ったのだが、新書と違い単行本の紹介は手強かった。
戦後歴史学の批判的検討を経て現代歴史学がある。
遅塚忠躬(ちづかただみ)のフランス革命の評価を論じた『ロベスピエールとドラヴィエ』(東京大学出版会、1986年)を読むための基本的な知識と視点が自分にないことは、佐々木真氏の読み解きがよく理解できないことから分かる。何しろロベスピエールなどは映画やお芝居でしか知らないし、具体的な史料など読んだことすらない。西洋史は概説書を大学で読んだことですでに40年以上も経っている。
中澤達哉氏が論じた良知力『向う岸からの世界史 一つの48年間革命史論』(未來社、1978年)はちょっと心を揺さぶられた。「向う岸」はアレクサンドル・ゲルツェンの『向う岸から』(1848-1850年)からとられている。
中澤達哉氏の論を見てみよう。
「しかし、良知は、エンゲルスによる「歴史なき民」に対する断罪を不当であると考えている」(P32)。
「「ブルジョア」や「プロレタリアート」の概念は、生々しい革命叙述のなかで自然と脱構築されて行く。ウィーン革命末期における人びとの生活の現実や、激しいバリケード戦の実態が、下民・棄民などの「歴史なき民」を通じて明らかにされていく過程で、従来の「ブルジョア」や「プロレタリアート」の認識や枠組みがいかに無効なのかが実証される、という仕組みとなっている」(P32-33)。
「プロレタリアート」とは何か。マルクス主義史学において「よく組織化され目的意識をもった階級集合体」(P35)とされる「プロレタリアート」に「棄民」や「未定型の流民」を入れて考察をするということは、「プロレタリアート」の概念の再構成である。
良知の著書からの引用を孫引きする。
「おそらくマルクスの見落とした特徴がもう一つある。バリケードに突撃し、ウィーンを攻め落とした反革命の「ルンペン・プロレタリア」がスラブの兵であったとすれば、革命ウィーンのために生命を捨てたプロレタリアもまたおそらくはかなりの部分スラブ系の民であった」(P30-31)。
これでは「プロレタリアート」v.s.「プロレタリアート」になってしまう。エンゲルスが「歴史なき民」を抜いた意味が分かる。これを良知が批判したことで、革命の解釈が複雑化することになる。「プロレタリアート」の概念が変われば「革命」の解釈も変わってくる。1948年の革命を読み直したいと思った。
注)アレクサンドル・ゲルツェン、長縄光男訳『向う岸から』(平凡社ライブラリー、2013年)のAmazonの説明によれば、フランス1848年の革命を敗者の側から考察したとある。
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