区切りということ

断片記憶

仕事の区切りがついて、さて、残された時間をどう使うか考えなければいけなくなりました。コロナウイルスで博物館や図書館などの施設がほとんど使えないので、事実関係の確認に使うことはできないとなると、日頃の懸案である本の話になるようです。

本は闇雲に読んでも仕方がないから、良書を読めというのがショーペンハウアーのアドバイスです。消費のためにミステリーを買ってきましたが、そのままになっています。暇つぶしなら将棋やチェスのほうがましなようです。手元には詰将棋とチェスの実戦譜があり、気が向くと手にとっています。詰将棋は解ければ気持ちがよいし、ボビー・フィッシャーの解説を読むと戦局の見方や戦略に改めて気づかされます。本を読むには好奇心がいるということです。好奇心は厄介で、意のままにはなりません。気持ちが向かわなければ、本は埃を被ってしまいます。

使えるものは自分の頭と外部記憶ですが、どちらも当てにならないので、同じところをぐるぐる回っているようです。少なくとも自分の書いたメモは使える状態に保つ必要を感じています。そのためのシステムも考え直さなければいけないようです。自分の専門分野以外の知識はアップデートされていないので、これをどうするかも考える必要があります。50年も経てば研究は深まるというのを中世史の本をまとめて読むことで感じました。信長や光秀のイメージも変わってきました。私の頭の中も講談の世界から歴史学での認識に切り替わってきました。歴史を知るのは現在を深く理解するためですから、問題意識は常に現在から未来にあります。大学で習った政治思想史に関する知識も陳腐化して使いものにならないことは自覚しています。経営に関わる以上、SDGsを無視して意思決定はできませんので、何故SDGsが出てきたかを深く考えることが求められます。個々の意思決定の根拠を明確にしていかなければならない状況にいることは変わりません。

これから先、何から読もうかと考えたとき、理解力の関係から読める本は実は少ないのです。ショーペンハウアーは古典を読めといいましたが、古典は訓練を経ていない私が読むには難しいものです。今日出回っている本の中から良書を見つけていくしかないと思っています。本が選べるということはその分野について見当がつくことです。だから色々な分野の本に手を出してきたのが私の本の歴史でした。自分と関わって同時代を生きてきた人の本は処分するのは難しいと思います。知人から頂いた本もその一つです。FBの振り返りを見ていたら、大学院へ寄贈した本棚が出てきました。それも選択の積み重ねでしたし、Bookoffへ出したのも選択です。これからも選択を重ねていくのだろうと思っています。

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