『日本の中世を歩く』(2009)その2

読書時間

五味文彦『日本の中世を歩く ーー遺跡を訪ね、史料を読む』岩波新書、2009年

五味文彦氏が中世の風景を読み解く話にもう少し付き合ってみる。

第2章 平等院をめぐる浄土の風景

平等院の発掘調査の結果、平等院が頼通の父の道長の無量寿院と同じく川の西側にあり川と山を眺める造りにしていることが分かった。現在の平等院では、宇治川の堤防もあり、東側の景色は見た記憶がない。池の東側から池越に鳳凰堂を眺める10円硬貨の光景を写真に収めることだけに集中してしまって、当時のことなど思えなくなっている。今度、鳳凰堂へ行くことがあったら、朝日山の方面の眺めを確認してみたい。

注)

五味文彦氏が勘違いしている点を見つけて少し残念になった。

「京都の無量寿院の故地を訪ねてみたとろ、鴨川を隔てた東には東山がそびえ、正面に如意嶽の左大文字(ママ)が見えるではないか。道長も無量寿院から東山に昇る夕日(ママ)・朝日を眺めて、阿弥陀仏の救いを思っていたのであり、頼通はその意匠を引き継いだものとわかった」(P24)。

第3章 辺境に雄飛する兵たちの夢の跡

平泉の柳之御所遺跡の評価にあたり、「寺塔已下注文」を精読した話だ。少し専門的なのは、これに関する講演の討論で反論があいついだからである。反論にしっかり答えるために詳しく書かれている。

「寺塔已下注文」は『吾妻鏡』に載っている。「文治五年(1189)九月十日、平泉に進駐した頼朝の旅館に参上した中尊寺の経蔵別当である心蓮」(P44)が安堵を訴えたときに、頼朝に文書での報告を求められて、後に「清衡已下三代の造立堂舎」について心蓮や毛越寺の源忠らが提出した書き上げでのことである。

注)

「已下」はルビがないので、普通に「いか」と読んでよいのだろう。平泉に行くことがあったら、事前に調べてきたい。高校の時に友達と金色堂を観に行ったことがある。勿論なんの知識もないので、正面が東でなく東南東であることも知らない。古来、方角を重視して建造物が建てられたのは常識であるから、金色堂の正方の方向線上に柳之御所が建っていたのは偶然ではない。

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