『日本の樹木』(1995)

読書時間

辻井達一『日本の樹木 都市化社会の生態誌』中公新書、1995年、1997年7刷

本書が出てから四半世紀が経過した。

本書はソテツ科ソテツから始まりヤシ科シュロの106種の高木の1900年代の終わり頃の日本における生態誌が長谷川哲雄氏のイラストを付けて語られている。日本列島の東日本が中心になるのは著者の辻井達一氏が北大の附属植物園長をしていたことも関係しているのだろう。

本書は植物図鑑ではない。イラストも葉や種子である。樹木の生態を語るということは、例えば、動物の分布境界としての津軽海峡を「ブラキストン線」といって、温帯に棲むニホンザルの北限をいうことはあるが、「植物にとってはブラキストン線はそれほど大きな意義を持たない」(p.102)というような観察を云う。

メタセコイアは化石から三木茂博士によって命名されていたが、1945年「生きた化石」として中国で生品が発見された話は面白い。街路樹から植物園まで含めれば、中国から配られたメタセコイアが日本中に植えられている。北海道大学附属植物園にも札幌市民から持ち込まれたケースは手に負えなくなった樹木としてだったと云う。50メートルになると聞いて5メートルのメタセコイアを慌てて処分しようとした札幌市民がいたと書いている(p.48)。

「植物の優れているのは、葉が出たり、花が咲いたりするまさに生きた変化を見せるところなので、これは人工的構造物では真似のできないことなのである」(p.174)。

企業活性化研究会でロボットのペットの話がでて、何故、金属で形態も本物と違えているのかという話になった。いくらでも本物に似せることは技術的には可能である。飼い犬が先に死んでゆくのであるから愛おしいのであって、ロボットが長生きして、死んだ主人を待ち続けたら、スピルバーグの映画『AI』のように切ないことになるなと思った。

文明は森林を破壊してきた。街路樹は邪魔になれば簡単に斬り倒されゴミと一緒にされる。ポストヒューマンの世界を想像したスタンリー・キューブリックを思い出したのであった。

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