河内将芳『シリーズ 権力者と仏教 秀吉の大仏造立』法藏館、2008年
第2章 大仏千僧会の開始
秀吉の先祖供養が大仏千僧会の始まりである。文禄4年(1595年)9月25日より慶長19年(1614年)9月25日まで大仏経堂で行われた。河内将芳氏によると、東寺文書には9月22日とあった。これは秀吉の実母大政所の月命日である。ところが、実際の大仏千僧会は9月25日「御祖父様」の月命日に開始された。11月29日には「御祖母様」の月命日として大仏千僧会が行われ、月毎に「御祖父様」と「御祖母様」という具合に交互に繰り返された秀吉の先祖供養は秀吉死去後も大坂冬の陣の前まで続いた訳である。
「御祖父様」とは「栄雲院道円」、「御祖母様」は「栄光院妙円」というがよく分からない。これは秀吉の先祖供養を通じての天皇御落胤説のプロパガンダと見ることになる。
各宗毎に百人の僧侶を集め、朝から大仏経堂で法会を行い、斎会をした。当初は新儀ハ宗と呼ばれた、真言宗・天台宗・律宗・禅宗・法華宗・浄土宗・時宗・真宗の次第が争われた。座次相論という。河内将芳氏は『義演准后日記』から醍醐寺三宝院門跡の義演の関心事が顕密仏教内での序列にあったことを書き(P89)、訴訟の結果、座次は天台宗の主張にそって導師の戒﨟(僧の得度年次)次第となったという。しかし、慶長4年(1599年)5月25日より八宗が月毎に分担する月番制になると、八宗の同列化が進むことになる。
大仏経堂を管理する妙法院が斎(とき)を出していたのが、ある時期から布施米が支給されることになったという。この布施米をめぐり、法華宗不受不施派の日奧が大仏千僧会の出仕に反論したことが触れられていることが面白い。不受不施法とは何なのか河内将芳氏の説明を引用する。「「不受」とは謗法(他宗)からの布施や供養を法華宗僧は「受」けないこと、そして、「不施」とは、他宗の僧や寺院に法華宗信者は布施や供養を「施」さないこと」(P104)であるという。「不受」が問題になる。
河内将芳氏は「このように法華宗では、大仏千僧会の出仕をめぐって、会合(後に受不施派とよばれる)と日奥(後に不受不施派とよばれる)とのあいだてきびしい対立がおこったが、おそらくほかの宗派でも程度の差こそあれ、同じことはおこっていたにちがいない」(P105)という。
そして、「寛永七年(1630)に江戸城内でおこなわれた身池対論(受不施を主張する身延久遠寺と不受不施を主張する池上本門寺との問答)をへたうえ、寛文の惣滅とよばれるはげしい弾圧によって、日奥を祖とする不受不施派が禁制された宗門となっていた」(P107)。
河内将芳氏は「大仏千僧会が豊臣・徳川という政権の枠をこえて統一権力の宗教政策として重要な位置づけがなされていったことが知られるが、もちろん秀吉が当初よりこのようなことまでを想定して大仏千僧会をはじめたのかどうかはわからない」(P109)としながらも、「ただしかし、大仏経堂において約二十年にわたりほぼ毎月行われつづけた法会がもたらした影響というのは、新儀の八宗のみならず、あらゆる宗派にとってきわめて深刻なものになっていったことだけはまちがいないといえよう」(P109)と締めくくる。
注)会合とは京都十六本山会合をいう。
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