岡谷公二『沖縄の聖地 御嶽 神社の起源を問う』平凡社新書、2019年
第3章 御嶽と神社
御嶽の起源についての柳田国男説と折口信夫説の話になる。
「御嶽とその信仰が古神道のありようを今に伝えているとは、今から一世紀近くも前、柳田国男がはじめて言い出したことである」(P96)。
柳田国男に対しては、「神は御祭りの折のみに降りたもうものと信じていたことであります。神を社殿の中に御住まい申さず、大和の三輪の山と同じように、天然の霊域を御嶽(おたけ)として尊敬していたこと」(『海南小記』)という引用をあげて、「彼は、おのれの御嶽=古神道説と「海上の道」説との折合いを終生つけることができなかったと思われる」(P102)と批判してる。
「一方の折口信夫は、日本文化の南漸説であった。肥後の佐敷に城を構えていた名和氏の一党が、南北朝の争いに敗れ、半ば倭寇と化して南下、沖縄本島南部の知念半島に上陸、そこで勢力をたくわえ、第一尚氏となって全沖縄を制覇し、故国の地名をとって知念半島の上陸地を佐敷と名づけたという主旨の「琉球国王の出自」(昭和十二年)一文を書いたことは知られている」(P102)とした上で、「しかし御嶽と古神道の関係を考える上で、ここにも問題が生じる」(P103)とした。「本土から人々が渡来した時期を折口説に従って十五世紀初めとするにしても、遡ってグスク時代の初めの十二世紀の初めとするにしても、その時伝えられたであろう神道は、柳田・折口の言う古神道とは、随分異なるものだったにちがいない。社殿一つとってみてもそうだ」(P104)と批判している。
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