『現代のアレオパゴス』(1972)

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森有正、古屋安雄、加藤常昭『鼎談 現代のアレオパゴス 森有正とキリスト教』日本基督教団出版局、1973年、1976年3版
書誌情報
本書は1972年秋、森有正氏(パリ大学教授、国際基督教大学客員教授 当時)が古屋安雄氏(国際基督教大学教授 当時)と加藤常昭氏(東京神学大学教授 当時)と神田一ツ橋辺りの一室で行った鼎談が元になっている(まえがき)。
アレオパゴスとは何か。エピグラフにパウロの説教(使徒行伝17:22-30)が引用されていた。口語訳新訳聖書(1954年版)からの引用と思われるので、森有正氏が省略された部分(17:27-29)を明示して引用してみた。
「17:22そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。
「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。 17:23実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。 17:24この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。 17:25また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、 17:26また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。 (以下は引用では省略されていた。17:27こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。 17:28われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、
『われわれも、確かにその子孫である』。
17:29このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。 )17:30神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。 」(『口語訳新訳聖書(1954年版)』日本聖書協会)。
アレオパゴスはアクロポリスで開かれた古代アテネの評議会をいう。
森有正氏が「対話」の題名の元となったアレオパゴスにおけるパウロの説教の要点を二つ挙げている。
「一つは「知られざる神」(二三節)、もう一つは「すべての人の悔い改むべきこと」(三〇節)すなわち人間の「罪」である。「知られざる神」とは認識を超えた神であり、パスカルの言う「呻きつつ求めるほかのない」神であり、「呻きつつ求める時、それはすでに見いだされているのだ」という神である。
パウロはこういうほんとうの人間の実存、「神の内にすでにある」という自覚と「罪」の悔い改めと、この二つの点からアテネの市民に訴えたのである。もしパウロの「怒り」を現代に対してわらわれが心の根底にもっていなかったら、われわれがキリスト教を語ることは全くナンセンスなのである」(p.3)。
森有正氏はプロテスタントであるが、父の森明氏によって暁星に入れられたという。11年間暁星にいたとある(p.36)。暁星はカトリックの学校であり、何故、暁星に入れられたかは分からないという。森明氏は森有正氏が中学2年生の時に亡くなったため、理由を聞くことは出来なかった(p.33)。森有正氏の著書にカトリックのことがたくさん出てくるのでカトリックの人に読者が多いと言っている(p.32)。
森有正氏の書物にリタージー(典礼)などカトリックの話が多く出てくるのは、フランスでの生活が長かったからなのか。私はキリスト教についてはほとんどわからないままに読んできたので知らないところは記憶に残っていない。今なら、Webで簡単に検索するであろうが、当時は辞典くらいしか調べようがなかった。大概、辞典を引いても腑に落ちる説明はなく曖昧なままに終わった。理解できないことは残らない。気になって読んだところが断片的に記憶に残っているだけである。
森有正氏がプロテスタントであろうが、カトリックであろうが、私にとってはどうでもよい話である。それは山折哲雄氏が浄土真宗本願寺派であることがどうでもよい話であるのと同じだ。テーマが自分にとって切実なものであるかが大事である。

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