鎌田東二、南直哉『死と生 恐山至高対談』東京堂出版、2017年
第1章 出会い
第2章 恐山 死と生の場所
第3章 危機の時代と自己cw
第4章 生きる世界を作るもの
第5章 リアルへのまなざし
第6章 生命のかたち
2019/01/09
第2章
南氏の「リアル」の定義が語られ、「思い通りになるものがヴァーチャルで、思い通りにならないものがリアル」だとされる。死者は関係者にとっては「リアル」とされる。
仏教では形而上学的な問いに是と否を答えない「無記」の態度が本来とされる。
[三木清が死は観念であるといった言葉を思い出した。]
恐山とイタコなどの民間宗教が語られるが、恐山が何故曹洞宗なのかは語られない。開基は天台宗の円仁と伝えられる。
2019/01/10
第3章
南氏「釈尊の時代と、道元禅師の時代と、われわれの生きている時代は、構造的にそっくりだと思います」。
南氏「それまでの物語が通用しなくなり、自己な存在様式を作る作法が混乱し、自己が作りづらくなった時代。それが鎌倉期だと思います」。
南氏「今はグローバル化の時代で、これまでの自分や自己というありようを規定していた作法や構造が、もう通用しなくなった時代です」。
現代を中世と同じ変革の時代と認識する点では鎌田氏と南氏も同じであった。
[鎌田氏の「スパイラル史観」は『世直しの思想』(春秋社、2016年)でも書いてあった。]
慈円の『愚管抄』の時代認識について南氏に鎌田氏が突っ込まれた形になった。
[『愚管抄』に関しては読み直したくなった。少し探したが見つからない。]
コメント