『改訂祇園祭と戦国京都』(2021)

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河内将芳『改訂祇園祭と戦国京都』法蔵館文庫、2021年

河内将芳氏が角川叢書で載せられなかった図表を文庫版に入れていた。一般書の決定版になる。現代の祇園祭も紹介しており、祇園祭のイメージの形成

図表は関連するところが収録されていた。
表1 明応九年に再興された山鉾(『祇園会山鉾事』より)
表2 戦国時代(明応九年〜慶長七年)の祇園会執行一覧
図3-3 明応9年再興時の山鉾所在地
関連略年表(本書に関わる事項を中心に)

祇園祭について、町衆が室町幕府という権力に抵抗するというイメージが、戦後に民科(民主主義科学者協会)によって作られたものであることを知る。端的に言えば、林屋辰三郎の研究である。昔、映画で見た『祇園祭』の中で町衆役の中村錦之介が侍に矢を射られながらも立ち向かう姿が微かに記憶にある。祇園会を侍から守るために死んでいったという作られたイメージが祇園祭にはある。

流れでいえば、戦前は皇国史観のため南北朝時代について室町権力により擁立された北朝が否定され、室町公方様は人気がない状態であった。右からも左からもよいイメージがない。歴史家のせいである。

河内将芳氏は、貴族等の日記をもとに祇園会(祇園祭と昔は言わない)について、都市民衆、室町幕府(武家)と延暦寺大衆(山門)の関係を丁寧に見ていく。大概は、日吉社の祭事が土倉からの馬上役の寄進が少ないため遅延し、延暦寺大衆が末寺である祇園社の祭事の中止を要求するところから始まる。室町幕府も土倉からの寄進が必要なため、両者の間に立って微妙な立ち位置を取っている。

 

祭事には出銭がかかるため、応仁・文明の乱が起こり33年中断がある。以降に祇園会が再興されたが、延暦寺大衆の圧力で度々延期になることがあった。永正13年(1516)は冬の12月に祇園会がおこなわれた。戦国時代の祇園会は分からないから面白い。

 

元亀2年(1571)以降に式日が安定するのは、信長によって日吉社や延暦寺が焼き討ちされた(P175)ためであるのも延暦寺大衆と祇園会の関係を考える上で興味深い。

 

関連年表は、『室町時代の祇園祭』(法蔵館、2020年)の重ならない部分を少し加えて、R2、R3の山鉾巡行中止を書き足して自分なりの年表にしておきたい。R4鷹山が再興され、巡行に加わる(予定)とあるは実現して欲しい。

 

 

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