清水克行『戦国大名と分国法』岩波新書、2018年
この『戦国大名と分国法』について、いつものようにまとめずに終わっていたのであるが、日経新聞に平山優氏が書評を寄せていた(2018年9月22日)のを読んで、私なりに整理しておく必要性を感じた。
「本書は最後に、なぜ分国法を制定した大名は滅ぶか不遇の末路をたどり、制定しなかった大名が躍進したのかという難問に立ち向かう。著者の結論をどう捉えるか。それは、終章まで読み進んだ読者各位の判断に委ねよう」。
だいぶ記憶が曖昧になっていたが、5章と終章をまとめる。
第5章 武田晴信と「甲州法度之次第」
武田晴信が駒井高白斎にまとめさせた「甲州法度之次第」は天文16年(1547)に制定された。26条からなる「甲州法度」は「今川かな目録」からの影響を受けたことが研究により明らかになっている。12カ条を対比して表にされていた(表2 「甲州法度」と「今川かな目録」の影響関係、P163)。
ただし、「甲州法度」は26条本、55条本などがあり、前後関係が論じられている。著者は26条本の9条に「今川かな目録」の「自由の輩」を抹消して「姦謀の輩」と書き直している26条本を上げて、55条本が増訂したと考えるのが妥当としている。
「「法」の整備に意を注ぎ、「法」の充実を心掛けた武田家は、なぜ滅んでしまったのか? ここで私たちは再びその問いに立ち戻ることになる」(P185)。
終章 戦国大名の憂鬱
清水克行氏は分国法に共通する特徴を4つ挙げている。
(1)自力救済の抑制
(2)大名権力の絶対化
(3)公共性の体現
(4)既存の法慣習の吸収・再編
これらは、大名側の「志向」であって、実現できたかは別問題としている。
分国法を定めた大名は10家しかないという。そして「いずれも多くは惨めな運命をだどってしまっている」(P192)。また、権力基盤が不安定な大名が起死回生策として分国法を制定した例として、六角氏や今川氏を挙げ「分国法を戦国大名の自立性の指標とする通説にも疑問が生じることになろう」(P192)と批判している。
分国法について制定者の意図したことが機能したかどうか分からないことが問題である。戦国のパワーポリティクスの時代に領国経営が分国法だけで成り立つわけではない。目まぐるしく変わる状況の中で軍事・外交政策を誤った戦国大名が消えていったと考えられる。分国法を制定し、法整備をすすめた大名自身が大名権力を縛られたことから、臨機応変に対応できずに滅んでいったという議論はやや説得性に欠けると思う。
戦国大名の領国支配を分国法だけで論じることはできないし、まして、分国法が原因で戦国大名が滅亡したという因果関係は言えそうもない。著者も「分国法はいらなかった」といってるくらいなので、戦国時代の興亡の決め手にはならなかった。
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