『坪内逍遥訳 新修シェークスピア全集』アンビヴァレンスの饗宴

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『坪内逍遥訳 新修シェークスピア全集』アンビヴァレンスの饗宴

谷沢永一、渡部昇一、山崎正和、林健太郎、高坂正堯、山本七平『古典の愉しみ』PHP研究所、1983年

山崎正和氏の体験

『古典の愉しみ』の中から山崎正和氏を通勤時間に読む。山崎正和氏は「戦後の満州という、いささか異常な環境のもとで」シェークスピアに出会った。「満州の敗戦とは、文字通りひとつの国家が根本から崩壊するという事件であり、また、国家が亡くなるとはどういうことかということを、目に見える形で示してくれる事件でした」。「冬は零下四十度になる厳しい自然の中で、十一歳の子どもであった私は、毎日何百人という人が飢え死んだり、凍え死んだりするのを眺め、また、ロシヤ軍、地方の軍閥、中国共産軍、国民党の軍隊という違った権力が、慌しく交替するのを見ていました」。

「そういう中で、二年目の冬を迎えた頃、私は、ちょうど臨終を迎えつつあった父親の枕元で、本を読む以外に何もすることがない生活を送っていました」。そこでたまたま読んだのが坪内逍遥訳の『新修シェークスピア全集』だったという。中学生になったばかりの山崎正和氏がシェークスピアをどこまで読めたが分からないが、こう回想している。「どの作品を読んでも、そこには、偉大なものが理由もなく滅びて行き、善意ある人間が運命の皮肉によって翻弄されている姿が、子ども心にはっきりと見てとれました。それは、荒寥とした満州の自然と、そこで繰り広げられている残酷な毎日の生活のなかでは、妙に、若い感受性にぴったりとくるものがあるようでした」。

シェークスピアの生きた時代

山崎正和氏は「シェークスピアの生きた十七世紀初頭という時代を振り返って見ると、そこには、不思議に、現代に通じるような文明の状況を見出すことができ」るという。それは「憂鬱」だという。そして、同時代のロバート・バートンの『アナトミー・オブ・メランコリイ=憂鬱の解剖』を取り上げ、彼の記述する症状をシェークスピアの登場人物に重ねて合わせて見せた。

坪内逍遥の翻訳

最後に山崎正和の翻訳論が出てくる。坪内逍遥の訳に対して「彼がシェークスピアの時代と彼自身が生きていた現代との、どちらにも片寄ろうとせず、常に、その中間に立とうとしていた」という。「具体的にいえば、彼は、たんにシェークスピアを、現代の観客にとってわかりやすく、馴染み易いものにしようとしただけではなくて、それが本来持っていた格調、あるいは、難解さをふくめて、現代の観客に伝えようとしていることです」。そして坪内逍遥の翻訳は、今日、古典となって生き残っているという。

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