吉川幸次郎・梅原猛編『対話 詩と永遠』雄渾社、1975年
本書は1967年に出版された『詩と永遠』の愛蔵版
50年前の対話である。
吉川幸次郎が本を読む能力についてまず語り出す。読書とは話者の心理に踏み込む技術だという。その技術を抜き書きすることにする。
「私がいちばん自信をもつことは、ひとさまの言語を読んで、この言語はどういうつもりていわれているかという、そうした著者あるいは話者の心理に踏みこむという技術、といっても、それはどんな言葉で書かれた言語でもというのとではないので、とくに中国語で書かれた文献にたいして能力をもっている」(P2)。
そして、言葉は一回限りの表象だという。
「歴史学は、『日本書紀』にこういうことが書いてあれば、その事実はこういうことであると、すぐその事実にいってしまう。あるいは『史記』にこういう言葉があれば、それはどういう事実を伝達するものであると、すぐ事実の方へいって、事実を分析しょうとするわけです。ぼくの場合はそうではない。事実はむしろ素材にすぎないのですよ。その事実を話者はいかにうけとって、いかに消化し、いかにそれを表現しているか、その言葉のすぐ背後にある話者の心理、それがぼくにとっては問題なんです。ぼくが本を読むというのは、そういう意味なんですがね。ということは、言葉を字引き的な意味ではつかまないということです。言葉を概念の表象としてはつかまない。すべての言語の代表しょうとする事態は、これはあなたたち哲学者の分野だけれども、すべて一回限り、そのとき限りのものでしょう。まず第一に、行為の主体である人間が無限に分裂している。「人心の同じからざるはその面のごとし」、顔がちがうように人間の心はちがうということが『春秋左氏伝』に書いてあって、それはぼくの好きな言葉ですが、そこから生起する事態はいくらあっても、同じものでないわけですよ。あるいは自然においても、花といったところで、同じ花は一つもない。ところが、それの表象となる言葉は、元来はひじょうに不便なものですね。そういう一回限りの表象とならなければならないにも拘らず、残念ながら、概念というような、なにかわかったようなわからないようなものの表象になる。だから、ここにいけてある花だって、そこに咲いている花だって、われわれは、花がいけてある、花が咲いているといわざるをえない。ただ、その内容となっている花はちがうわけですよ。つまりは、言語はその単語においては有限の数であるという、そういう宿命をもっている。それを、ぼくは人間の一つの悲劇だと思うのだけれども……。ただ、そういう有限の数の単語で無限の事態の表象となると、これは文章というか、コンテクストというか、単語と単語の結びつけ方によって千差万別の事態を表現しょうとする。本を読むということは、そのとき限りの事態の表象といて、それぞれの言葉あるいはそれを結び合わせた文章がいかになっているか、それを追求をすることなんです。そして事態そのものよりも、話者の扱い方を追及する。言語はむろん音声をもっております。音声の流れだけども、ただ、その音声の流れがいかなる格好にあるかということについて、こまかな観察をしなければならない。ところで、音声の流れというのは、さっきいったような楽音ではない。それぞれの音声は、みなそれとつながるイメージがある。ただそのイメージは眼前にある事態そのものではない。やはり概念でしょう。概念につらなるイメージをもった音声、それを眼前の事態の表象とするものは、おなじハナでも、ハナという音声の発音のし方です。ハナがいけてある。花が咲いている、あるいは散りゆく花、場合ばあいによって、花という音声はそれぞれに変化してくるわけですよ。音声測定機かなにかにかけてみれば、音価は少しずつちがってくる。極端にいえば、同じ人間でも、同じハナという発音を二度とすることはできない。それがどのへんにあるかということをこまかに測定して本を読む。そういう技能をぼくはもっていると思います。ところで、言語でいちばんその形態にあるものは何かといえば、それは日常の会話でもなく、また文学にしても散文のではない。それはやはり詩の言語です。だから、ぼくは本を読むことを詩の言語を読むことによって習熟していった。まあそういうのがぼくのいままでの経歴であると申せましょう」(P4-6)。
人間はいかにして分裂していくかに興味を持つという。
「私は根本において人間の分裂のほうに興味があるのですよ。人間が一つに流れていく方向よりも、人間はいかにして分裂していくが、さればこそ、さっき言ったように、言葉というものもすべて一回限りの事態の表現なんです。その一回限り性を言葉の奥につかまえていこうというのは、ぼくの言葉でいえば分裂、分裂というのはいちばんいい言葉かどうか知りませんけれども、宋儒の哲学の言葉で、「理は一にして分は殊なり」というのですよ。理は一つである。道理は普通に存在している。それがあとで永遠の問題にふれてくると思いますがね。しかし、その表現は千差万別である。一つとして同じものがない。一つとして同じものがないからこそ、それが道理である、と。ぼくは宋儒の哲学をそう理解している。ぼくは「分は殊なり」のほうに興味があるので、本の読み方もそうなるのですがね」(P10)。
割り切れないものを読み取ること。
「ほんとうの詩人ならば、あるいはほんとうの言語表現者ならば、散文を書く場合だって、自分が表現しょうとする事態が一回限りのものであるということにひじょうに敏感であって、その一回限りものを、いかに一回限りでない、その辺りに落ちている練瓦(ママ)みたいな単語を使いながら、その練瓦(ママ)を金に化するか。そういうことになぜ苦労をはらうかといえば、ものは一回限りであることによって、その奥に無限の割り切れないものをもっているからだと思うのです。その割り切れないものを表現しょうとするから、その一回性に着目する。その一回性を表現しょうということは、割り切れないものを表現しょうとして苦心をする。そういうことだと思うのです。だから、読む人がそこまで到達しなければぼくはうそだと思う。ところで、現代のだいたいの風潮は、そうした一回限りであるものを見て、その奥にある割り切れない不可思議なもの、それをたいへん小さなものと感ずる。そして現代の思考には、だいたい小さいものはつまらぬという論理がぼくはあると思う。大きなものでないと価値を認めない」(P17-18)。
表現は選択である。
「私は昔から、表現は選択であるという説を持っているのです。表現は選択であるというのは、ぼくは文学以外、あるいは言語表現以外のことはわかりませんけれども、現実というものは、どんな事態だって、これは無限に複雑なんですよ。それでも言語というものは、少なくとも単語をとってみるかぎり、その頂点を議するにすぎない。指摘しえた頂点をつらねて文章をつくるわけです。現実は無限に複雑である。だから、言語表現というものは選択なんですよ。そこにいくつかの単語によって表現されるべき要素がある。どれをとって表現するかということが言語表現なんです。そういう意味から、ぼくはひろく表現は選択であると思う。古人の言葉を抜き書きしてあるとしたら、それは何を抜き書きしているかということが、大事なんです」(P27)。
言語は指摘である。
「言語はそういふうに指摘である。指摘であるということは、いちおうすげない概念のようでありながら、表面に指摘されたもの以外に指摘されざるものをふんいきとして周辺に伴おうという、そういう努力だと思いますね。ところで、いま言おうとしていたことは、指摘であるということ、それは歴史叙述というものも指摘だと思うのですよ。歴史もことがらの全部を写しませんからね。しかし、ぼくはまた一方では、散文の任務にもひじょうに信頼するのですよ。要点だけを指摘するのじゃなしに、せいぜいこまかに事実を追っかけて日常を復活したような歴史というものも、書けないかということなんです。そういう努力は、このごろああいう『世界の歴史』的なものがあまりはやりすぎるので、おろそかになっているのとちがうかな。そのいい例は、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』です。あれはとにかく知りうるかぎりの事実は全部入れようとしたものでしょう。あれこそぼくは最もいい散文精神だと思いますね」(P34)。
言語が一回限りの表象であるとすれば、詩だけでなく散文の中にもそれを見いだすことができなければならない。散文の例はなかったが杜甫の詩を2つ読むことで味わう。
同諸侯登慈恩寺塔
日暮
ここまできて、読みかけの杜甫があることを思い出した。去年買った『杜甫全詩訳注1』を探すか、『吉川幸次郎全集 12 杜甫』を取りに本棚まで辿り着ければと思った。
#吉川幸次郎
コメント
[…] 言葉は一回限りの表象吉川幸次郎・梅原猛編『対話 詩と永遠』雄渾社、197… […]