『日本後紀 上 現代語訳』(2006)

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森田悌『日本後紀 上 現代語訳』講談社学術文庫、2006年、2010年第5刷

書誌情報

『日本後紀』の現代語訳で、原文も併記している。索引はない。

「『日本後紀』は40巻からなる編年体の歴史書で、現存するのはそのうち10巻分である。残存巻については、行き届いた校訂本として新訂増補国史大 系本(吉川弘文館刊、1934年)があり、散佚した30巻ぶんについては佐伯有義氏が逸文を集成し、1941年に朝日新聞社より刊行している。その後黒板伸夫氏と本書の著者が編集に当たり、残存巻と逸文巻とを併せ新たに判明した逸文を収取して校訂を加え、編年順に配列した『訳注日本史料日本後紀』が2003年に集英社から刊行されている。本書所載の原文は集英社版に依拠し、その訓読・注釈に基づいて現代語訳を作成した」(凡例)。

行き届いた凡例である。なお、漢字は常用漢字表にあるものは常用漢字体に改めたとある。

上巻

日本後紀 序(逸文)

桓武天皇

巻第一 延暦十一年正月〜同年十二月

巻第十三 延暦二十四年七月〜大同元年五月

延暦11年は西暦で792年、ということは、794年の平安京遷都は延暦13年か。どおりで桓武天皇は狩猟ばかりしているわけだ。平安京遷都がどのように進んだのかは『日本後紀』だけでは分からないが、取り敢えず関係すると思われる箇所を書き抜いてみた。長いのは要約している。

延暦11年にそれらしき記載はない。延暦12年の正月に遷都のための視察を命じている。その後すぐに内裏を解体するという慌しさである。このあたりは逸文の影響があるのであろう。延暦11年から14年6月までは逸文である。蝦夷征討と並行して行われた平安京遷都の大変さが窺われる。

延暦12年

1月15日 大納言藤原小黒麻呂と左代弁紀古佐美らを派遣して、山背国葛野郡の宇太村(京都市右京区宇田野)の土地のようすを視察させた。遷都のためである。

1月21日 天皇が内裏の東方に位置する東院へ遷御した。内裏の宮を解体することになったためである。

2月2日参議治部卿壱志濃王らを遣わして、遷都のことを賀茂大神に報告した。

3月1日 天皇が葛野に行幸して、新京(平安京)を巡覧した。

3月7日 新京の宮城の敷地の中へ入ることになる百姓の土地四十四町の代価として、賃租(耕地の賃貸借)に出して得られる収益の三年分を支給した。

3月10日 参議壱志濃王らを遣わして伊勢大神宮へ奉幣し、遷都の由を奉告した。

3月12日 五位以上の者と諸司の主典以上の者に役夫を提供させ、新京の宮城を造る工事に充てた。

3月25日 遷都のことを山稜<山階(天智天皇),後田原(光仁天皇)・先田原(施基皇子)>に報告した。

6月23日 諸国に命じて新宮の諸門(宮城門)を造らせることにした。

7月15日 葛野郡の百姓の口分田の多くが平安京の中へ収公されることになったので、山背国の雑色田を停止して、それを百姓に班給せよ。代わりの雑色田は四畿内に置くようにとの詔勅があった。

7月25日 天皇が新宮を巡覧して、造宮使と将領に衣を下賜した。

8月10日 平安京周辺の諸山での死体埋葬と樹木の伐採を禁止した。

9月2日 菅野真道と藤原葛野麻呂らを派遣して新京の宅地を班給した。

11月2日 天皇が新京を巡覧した。

12月18日 勅により、長岡京建設の際に立ち退いた百姓に支給した代価の返還を求めないことにした。

延暦13年

1月1日 天皇が朝賀の儀をとり止めた、宮殿の解体が開始されたからである。

4月28日 天皇が新京を巡覧した。

6月23日 諸国の人夫五千人を動員して、新宮の掃除を行うことにした。

7月1日 長岡京の東西の市を新京(平安京)へ遷した。店舗を築造する一方で市人を移住させた。

7月9日 山背・河内・摂津・播磨等の国の稲一万一千束を従三位百済王信ら十五人に賜った。新京に家を造るためである。

9月28日 新京への遷都と蝦夷征討の成功を祈願するため諸国の名神に奉幣した。

10月5日 天皇の衣服・調度等を掌る装束司と行幸の時の行列を指揮ふる次第司を任命した。新京への遷都の行幸をするためである。

10月11日 越前国の人船木直安麻呂が亡父が公用に供するため収穫した米千斛を平安京の造宮料に供した。

10月22日 天皇が新京へ遷った。

10月25日 造宮使と山背国が奉献して、五位以上の者に衣被および農具等の器物を下賜した。詔りが出された。

10月28日 鴨神社と松尾神社の加階がされ、受位があり、任官があり、遷都が行われ、詔りした。

11月08日 山背国を山城国と改める詔りが出された。近江国滋賀郡の古津を大津と改称させた。

延暦14月

正月1日 大極殿が未完成のため朝賀の儀を取り止めた。天皇は侍臣と前殿(内裏正殿)で宴を催した。

5月13日 造宮使主典以下将領以上百三十九人に、それぞれの功績に従い位を授けた。

5月14日 正五位下文室八多麻呂ら十八人に命じて、交互に長岡京の旧宮を守衛させることにした。

8月19日 天皇が朝堂院に行幸して、工事中の現場を視察した。

9月4日 天皇が東院に行幸した。

延暦15年

正月1日 皇帝が大極殿に出御して朝賀を受けた。

延暦12年に内裏の解体が始まり、延暦13年の宮殿の解体があり、同年10月28日に遷都の詔勅が出る。大極殿は延暦14月年8月以降に完成したのだろうか。はっきりとは書いていない。延暦12年に平安京周辺の諸山で死体埋葬が禁止された。水の森 志明院のときの雲ヶ畑の持越峠の話の起源に繋がる。

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