冨士谷御杖の言霊論と古事記日向神話

古都を旅する

鎌田東二「霊性の京都学88 冨士谷御杖の言霊論と古事記日向神話」『月刊京都 2017年1月号』

先月は演劇の話になって、話が進まなかったが、今月も宮崎や恐山の聖地霊場体験の話で霧がかかったような気がする。鎌田東二氏は京都のNHK文化センターで月1回『古事記』購読の講座を続けていて、「本居宣長や冨士谷御杖の古事記論を再度読み直し捉え直しながら、『古事記』の象徴構造をあれこれ考え続けている」という。その割に出してきたのは、以前の本の丸写しだったとは先月の気づきだった。

京都のNHK文化センター主催で11月3日から5日まで宮崎の地を旅したと書いて、すぐに回想モードに入っていく。鎌田東二氏の原点である17歳の時の自転車旅の体験は何度も読んだ。聖地感覚・聖地類型の原点・原型である青島はその旅の途中で訪れた。

豊玉毘賣と山幸彦の相聞やヤマトタケルの妻であった弟橘比売の歌を古事記から取り上げ、自身の心身変容体験から詩のようなものを書き始め「詠い人」になったと回想した。

「「鬼の洗濯岩」に「石笛」となる自然に穴の開いた石が転がっていた。それを今回思い知った。17歳の時に最初に出会った聖地が歌の聖地であり、石笛の聖地であった。人生というものは何と象徴的で妙であるのか。本居宣長も冨士谷御杖もびっくりである。これも「神ながらの道」か」。

そして、恐山の話となる。なんと10月28日に恐山に4度目訪ねることになった。円通寺の南直哉氏と対談のため向かったのだった。南直哉氏の本は何冊か読んでいる。この論客とどういう対談をしたのだろうか。

4頁の連載のほぼ3頁を費やして、本題に帰ってきた。冨士谷御杖の言霊倒語説に続き今回は「神道説」を小出しして、「天地初発之時」の解釈を導いて終わる。次回は「幽」を論ずると予告している。著者が自分で書いた本を読み直ししているだけなような気がする。

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