鞍馬寺を解く鍵

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森浩一『京都の歴史を足元からさぐる[洛北・上京・山科]』学生社、2008年

1.鞍馬寺を解く鍵

鞍馬寺は藤原伊勢人(ふじわらのいせど)が開いた。その経緯は『今昔物語集』巻第十一「藤原伊勢人、始めて鞍馬寺を建てる語」で語られるが、ちょっと複雑である。藤原伊勢人は観音像を祀ろうとしていたが、白馬によって導かれたのは毘沙門天だった。

「毘沙門天の出現で伊勢人が戸惑っていると、毘沙門天の侍者(子でもある)禅膩師童子(ぜんにしどうじ、森浩一先生は「膩」を月(にくづき)でなくイ(にんべん)を遣う)が夢にでてきて、そのことはさほどの差のないことを伝え伊勢人を納得させた。以上の入りくんだ複雑さにも鞍馬寺を解く鍵はある。」(24頁)という。

森浩一先生は寺が開基とする鑑真の高弟鑑禎については触れていない。

森浩一先生はトチの木でつくられた毘沙門天像を宿題にして、鞍馬寺を終えたので鞍馬寺を解くことはなかった。

なお、鞍馬寺弘教総本山として尊天を祀る現在の鞍馬寺(1949年〜)についても一切触れていない。

2.三千院を解く

森浩一先生は貴船神社について、明治以前は貴布禰神社と区別しようと書いていた(34頁)。

では、三千院はどうか。

三千院は新しい寺院であるといってよい。我々は阿弥陀三尊像のある往生極楽院阿弥陀堂を三千院だと思ってしまうので、古い由緒ある寺院と見てしまう。

三千院は1871年より梶井門跡が現在の地(梶井門跡の政所)に本坊を移した時からの名称である。三千院は梶井門跡の仏堂の名称「一念三千院」からとったものである。「一念三千」とは天台宗の観法のことである。これについてはいつか書こう。もともとあった往生極楽院阿弥陀堂(12世紀中頃建立)は三千院の境内に取り込まれたことになる。

三千院は明治以後の名称である。しかし、三千院の本坊である宸殿や客殿に私は魅力を感じない。往生極楽院(旧称極楽院)こそが本堂だと思っていた。弁財天から先は行ったことがない。御殿門に不釣り合いな往生極楽院を見た時、三千院の歴史をちゃんと見ておくべきだった。

関連情報

『京都の歴史を足元からさぐる[洛北・上京・山科]』(2008)

貴布禰神社の奥宮

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