近江懐古譚

シガモノ

近江八幡は羽柴秀次の城下町としてよりは、近江商人の町として栄えた。八幡山(標高283m)へは日牟禮八幡の裏からロープウェイで上がれる。羽柴秀次の八幡山城は安土城に替わる近江国支配のために羽柴秀吉と羽柴秀次によって築かれ、安土城下町も移築した。しかし、二代城主京極高次のときに(1595年)に廃城となった。この八幡山城趾に秀次の母の日秀尼が開基の村雲門跡瑞龍寺が1963年に移転してきた。

さて、晴れの日のあらすじは、近江八幡 水郷めぐり(貸切船、昼食付)である。近江八幡山駅で待ち合わせする。昼前であるが、梅雨の晴れ間で気温はすでに30度と真夏日である。しかし、タクシーが出払っている。相方が電話するが、時間がかかるという。お昼どきであり、バスは30分に一本しかない。乗合船へ遅れるという電話を入れていた。

やっと来たタクシーで豊年橋へ向かう。

日牟禮八幡の一の鳥居の前を通り、ヴォーリズ高校を右手に見て豊年橋に着く。観光バスも来ていて混雑している。

受付して待っていると船頭さんが来て案内する。まずは飲み物を自販機で買うことを勧められる。暑いので缶チューハイにしたが、相方はフリーを選んだ。私にだけビールを勧めてもらっても困ると思ったが、500mlにしておけばよかったか。

さて、船に乗ってゆるゆると水郷へ向かう。すき焼きの鍋がセットされていたが、鍋を持ち上げて、火の具合の指導を係の人から受ける。すでに牛脂を塗ってある。肉を投入した。

ここで、関西風のすき焼きについて補足しておくと、関東でいう割下はない。その場で、砂糖と醤油とお湯で味を整えていく。野菜を入れれば水が出るので常に味をみていく。取り敢えず肉を焼くことから始めたのであった。

船は6人まで乗れる小型船である。手漕ぎであるから静かなはずであるが、すき焼きのガスと脂の跳ねる音でそれどころではない。掘割を抜けるとそこは吉原だった。ヨシ原である。ひっきりなしにヨシキリが鳴いている。船からは水鳥に近い視線で眺められる。カイツブリがザリガニを食べていたりする。

よしの間や水辺をすべる手漕ぎ船(千河)

水郷は、1950年に琵琶湖国定公園となった時、琵琶湖八景の一つに選ばれた。春色 安土・八幡の水郷である。長閑な風景が選定の理由となった。安土山が見えて、一句をしたためる。

夏服に風を入れよと西の湖(千河)

船頭さんの電線が見えないという売り文句を繰り返しているうちに、電線が見えてきた。船は水郷を一周して戻ってきたことになる。

船を上がって、近くにある人気のスポットへ行くことにする。ラ コリーナ近江八幡である。船から本社の特徴ある建物が見えた。和洋菓子のたねやの店舗は屋根一面が緑に覆われている。草屋根と呼んでいる。各所で工事していた。発展途上のたねや王国である。カフェは非常に混雑していた。

ゆっくりと戻って、八幡堀へ向かう。

日牟禮八幡にお参りしたあと、ロープウェイで八幡山城駅へ上がる。八幡山城址にある村雲門跡瑞龍寺に在りし日を想えば短歌となる。

淡海なる八幡山へひと登り

主人を問えどこだま還らず(千河)

遠く南西に開ける蒲生野を見れば、額田王と大海人皇子の歌が思い出される。蒲生野での狩りのあとの宴での座興の歌であると解される。社交辞令にしてはよくできた歌である。素朴な心情を歌った和歌ではない。

佐佐木信綱編『新訂 新訓 万葉集 上巻』(岩波文庫、1927年)

萬葉集第一巻

20 あかねさす紫野行き標野行き

野守は見ずや君が袖振る(額田王)

21 むらさきのにほへる妹を憎くあらば

人づまゆゑに吾戀ひめやも(明日香宮御字天皇)

佐佐木信綱編『白文 萬葉集上巻』(岩波文庫、1930年)

20 茜草指 武良前野逝 標野行 野守者部見哉 君之袖布流

21 紫草能 爾保敝類妹乎 爾苦久有者 人嬬故爾 吾戀目八方

現在の景色は街並の先を遠く見やるだけなので、過ぎ去った歴史は彼方にたゆたっている。長閑な午後が経っていくのを感じるのだった。

蒲生野や麦刈り去ってひと休み(千河)

ロープウェイで下って、八幡堀界隈のカフェで一休みする。たねやはどこも混んでいた。

商人の街並を散策するつもりだったが、この暑さで人も出ていない。

商人も挨拶交わす梅雨休み(幾山)

ちょうど来たバスに飛び乗って駅に向かった。

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