貝原益軒の博学とは何か
早稲田で行われた講義は貝原益軒の知がテーマであった。養生訓は次回(7月2日)になる。
『先哲叢談』の貝原益軒は11条あると前に書いたが、太宰春台は貝原益軒を「博学洽聞、海内に比無し」と称説している。
四字熟語辞典オンラインで「博」を検索すると、博識洽聞(はくしきこうぶん)が出てきた。様々な経験をしていて、様々な知識を深く知っているこという意味である。博学洽聞は四字熟語とは認識されていないようだ。江戸期の漢字の遣い方は我々のように四字熟語に縛られていないようだ。
『先哲叢談』によると貝原益軒は9歳で兄より漢文の手ほどきを受けた後、いきなり、京都へ遊学になっている。ちょっと飛躍しすぎである。伝記で補う必要がある。二代藩主黒田忠之は御家騒動で有名だ。貝原益軒は致仕している。三代藩主黒田光之に仕えることになり、京都へ7年間遊学する支援を得られる。子安宣邦先生は徳川の文治主義の時代であったという。
三都という形は17世紀後半には出来上がったのではなかろうか。江戸は政治都市、京は伝統文化、大阪は商業の中心であった。大阪が物流の中心であったことで、知のネットワークの中心になった。思想史という時間軸を空間軸で再構成してみれば、伊藤仁斎は京、荻生徂徠は江戸、本居宣長は松阪、山片蟠桃や富永仲基は大阪、貝原益軒は博多、三浦梅園は豊後国東半島など分散自律している。近代の東京一極集中とは違ったネットワークが存在した。幕末の横井小楠は熊本だし、適塾は大阪だ。地図にプロットしてみたくなる。
貝原益軒が博学であることは先に書いたが、幾多の書物を刊行したことで、近世の知が広まったという結論になり、タケウチでビールタイムとなる。
『和俗童子訓』は誰のための教育論なのだろうか。貝原益軒の属する武士階級の子弟のためだろうか。石川兼の解説ではそこまでは言及していない。「かれの教育思想が体系的にくみたてられている書物であるというばかりでなく、わが国における最初のまとまった教育論書である」と評価している。
四民、貴賎を問わないが、教育について四書五経を読書の基本に置いた時代は過ぎ去った。我々は何を読んで基礎とすべきなのだろうか。教科書を読んで基礎とすることが出来ない時代に生きている。
人生を読み直すことは出来ないし、今後の人々にとって役立つ本など分かりはしない。
貝原益軒にとって、「孝経」の教えと「養生」とは合致する。「孝経」には「養生」という考え方はないので、独自の思想とみてよい。子安宣邦先生も『養生訓』について、「人は自己へのこの養生論的配慮をもって天に報いるべきであるという言説をはじめていったのが益軒」だとした。
身体二元論的考え方が貝原益軒にあり、精神の主体性を主張する。松田道雄は現代医療における、患者の主体性の問題を論じる。
松田道雄の解説はまるで貝原益軒が現在に現れて、その思想を語っているようだ。江戸と現代で何が変わり、何が解決されないのか。『養生訓』は風化していない。
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