『テクストの発見』(1994)その4

読書時間

大澤吉博編『叢書 比較文学比較文化 6 テクストの発見』中央公論社、1994年

大嶋仁氏の「小林秀雄『本居宣長』より」を読む。

小林秀雄の『本居宣長』(1977年)、第十二章の冒頭の四段が引用されて、大嶋仁(おおしま ひとし)氏の読みが披露される。小林秀雄の強引な解釈を、「これを全面的に受け入れ、小林に同調(同意ではない)するか、あるいは全面的に拒否するかのどちらかである。しかし、小林の文章を解釈する義務を担っている我々としては、このどちらでもない第三の道を探らねばならない。すなわち、これを一つの「テクスト」として、感情的にならずに読むことである」(P431-432)。

この気持ちはよく分かる。小林秀雄の文章は冷静に読ませないものがある。

「読者が「無私」になりさえすれば、作品は「向うから」必ず正体を現してくれる、だから要らぬ解釈は捨てろ」(P432)というのが小林秀雄のメイン・テーマであると大嶋仁氏は云う。

大嶋仁氏の批判は厳しい。

「この小林のメイン・テーマには、各々の作品には唯一絶対の正体があるという前提がある。そして、その正体は「無私の精神」において必ず伝達されるものだ、という確信がある。この態度の本質は、単なる直観主義というよりは、むしろ霊の声を聞き分ける巫女の態度であり、それはいわゆる「近代」の精神とはほど遠い、原始的な心性のあらわれなのである」(P432)。

「逆に、「無私」の対極にある「解釈」とは、自己意識および時間と空間の意識による作品の解説ということになる。それは、必然的に「歴史」的な視点の導入ということになるのである。「解釈」を拒絶する立場は、従って、「歴史」を拒否する立場にほかならない」(P434)。

「だが、「歴史」を拒絶する巫女的評価家小林秀雄は、それならどうして近代批評家仲間に入れるのか」(P434)。

「小林は「歴史」を拒否する人でありながら、同時にまたそれを受け入れているのである」(P434)。

大嶋仁氏は小林秀雄を「ボードレールの「近代」に惹かれつつ、ランボーの「野生」にも惹かれていた」(P436)とする。

付記で大嶋仁氏は小林秀雄の文章の解釈困難性を述べている。

「小林は宣長の晩年の文章を字句にこだわらず思い切って解釈している。そうした解釈が許されるのも、自分は宣長をよく知っているという確信が彼にあったからである。私も、自分は小林をよく知っているという前提で、小林の文章を読み解く以外になかった」(P437)。

『テクストの発見』ではこのように具体的テクストについて解釈が見られた。文学から遠ざかっていたが、読むことの励ましてを少しもらった気がする。

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