堀米庸三『正統と異端 ヨーロッパ精神の底流』中公文庫、2013年
ヨーロッパを考えるにはキリスト教による中世というものをどう考えるかという問題を扱わなけばならなくなる。『バロックの神秘』で書かれたドイツ三十年戦争の後の世界がどのような歴史の流れの中で生じたのかについては、遡って、正統と異端についてから考えてみることにしたい。答えはここにないかもしれないが、デカルトの精神を考える上でもヒントになるのではないかと考えている。
書誌情報
『正統と異端 ヨーロッパ精神の底流』(中公新書、1964年)を文庫化したもの
目次
まえがき
Ⅰ 問題への出発
Ⅱ 論争
Ⅲ 問題への回帰
解説 樺山紘一
解説を読むのは2度目になるが、問題意識があるので、ポイントはつかめた。解説を読み、はじめにを読むと、流石に記憶が蘇ってきた。堀米庸三のはじめにの文章に比べ樺山紘一氏の文章は力みがある。
樺山紘一氏は読後の意外感を二つ挙げている。
第一の意外感
「おもに取りあげられるのが、十一世紀から十二世紀にかけて、グレゴリウス改革にともなって表面化する正統と異端の問題であること。ふうつに理解される中世キリスト教異端ではない。一般的に想起されるのは、カタリ派やワイド派であろう」(P265)。
第二の意外感
「そのグレゴリウス改革が、(省略)、教会の粛清と改革をかかげ、ローマ法王権の圧倒的優位を実現させた。「カノッサの屈辱」(1077年)を表徴とする法王・教会の権力と権威の確立こそが、グレゴリウス改革の主要モチーフであろうから。しかし、そうだとすれば、いったい「正統と異端」問題は、そのなかのどこに位置するのであろうか」(P266)。
そもそも「正統」と「異端」という概念は一般に受け取られているような遣い方ではないことに注意する必要がある。
樺山紘一氏は秘蹟に関する主観主義・人効論(秘蹟という名で表現される洗礼や叙品などは、それを施す人物の値打ちのゆえに有効に機能する・執行者重視論)と客観主義・事効論(秘蹟を与えた人物が誰であれ、それが公式の規則に従って行われたのなら有効・聖務重視論)を説明したうえで、中世キリスト教会は客観主義こそが正統な立場であり、人効論は異端であったという。「じつは、グレゴリウス改革は、秘蹟についての異端ぎりぎりの人効論を楯として、教会の粛清と改革を推進した」(P268)。
そして、「正統と異端という視点を、グレゴリウス改革からイノセント三世にいたるほぼ一世紀半のなかにすえてみるとき、中世カトリック教会をおおう巨大なダイナミズムが姿を現わす。教義上の疑点をあえて冒しつつも、教会改革のエネルギーに訴えて、それを現実上の運営にまで展開させること。逸脱にすら向かいうるこのエネルギーこそ、教会とその改革をささえ、信徒たちを覚醒し、行動にいざなう力の源泉であった。それは、正統の立場を踏みはずし、ほとんど異端の際にまで立ちいたったけれども、それゆえにこそ、逸脱に瀕した「異端」者たちを教会内に回収しえた。それは、あまりに鮮烈なダイナミズムと形容したいものだ。このような観察として本書を読むとき、わたしたちは、冒頭にかかげた二重の意外感をすっきりと解消することができるように思われる」(P269-270)。
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