横浜を歩くことは余りないので、地理が頭に入っていない。地下鉄みなとみらい線の元町中華街の駅のホームから、地上まで、長々とエスカレーターを乗り継ぐ。改札口を出て、アメリカ山公園へのエレベーターやエスカレーターがあるのを見送り、外に出て港の見える丘公園へ向った。フランス領事館遺構から木々の中の階段を一気に上がる。少し息が切れた。
港の見える丘から、横浜ベイブリッジがよく見えた。
県立神奈川近代文学館
没後70年坂口安吾展 あちらこちら命がけ 県立神奈川近代文学館 2025年10月4日(土)〜2025年11月30日(日)
Le Petit Parisienのオーナーさんから頂いた招待券を使ったのはどうやら私だけではないようだった。坂口安吾(1906年-1955年)や安部公房(1924年-1993年)は忘れられた作家だと思っていたが、県立神奈川近代文学館で「安部公房展」(2024年)に続き「坂口安吾展」(2025)が開催されたことで、認識を改める必要があるのかもしれない。新潟の名家の没落の話から始まる展示を観て、坂口安吾のことは何も知らなかったことがわかった。『堕落論』(『新潮』1946年(昭和21)も今では記憶に薄くなってしまった。坂口安吾の基礎が漢学にあるのではないかと思った。父・仁一郎は、衆議院議員であり、新潟新聞社社長であり、漢詩人として五峰と号し、『北越詩話』という「郷土ゆかりの漢詩人1000名余りとその作品を紹介する」(展示品説明)ほどの教養人であったからである。他に『立川文庫』が展示されていた。この総ルビ本を安吾は好んだというが、それだけなのだろうか。彼が後に東洋大学大学部印度哲学倫理学科へ入学する下地はどこにあったのだろうか。
『坂口安吾展公式図録』と『神奈川近代文学館 館報第170号を買って、大佛次郎記念館のティールーム霧笛でチーズケーキとコーヒーで休憩する。店名の霧笛は大佛次郎の小説『霧笛』(1934年)から採られた。よく観ると、店内は猫だらけである。カウンターの上方のCE COIN ME SOURITと大きく書かれた板は「この一隅は私に微笑みかける」という。レシートの裏にまでこのフランス語が印刷されていた。壁に藤田嗣治の色紙が飾られているのを時折見上げたりしながらも、館報を読むのだった。こういうものはその場で読まないとそのままになってしまうのである。
横浜外人墓地
横浜外人墓地が一般公開されていた。志納金を払い資料館と公開エリアを一回りした。ペリー来航後の居留地の死亡者が葬られたところだ。この歴史を考えている時、寺島実郎著『世界認識の再構築 十七世紀オランダからの全体知』(岩波書店、2025年)が読みかけだったことを思い出した。近代日本は海からやって来たのであった。
初代快楽亭ブラックの墓がパンフレットにあっので、少し行き過ぎたのを戻ってHenry James Black(1853-1923)の墓を確認した。この墓地に葬られている人々のことはいつか調べてみたくなった。
アメリカ山公園から、エレベーターまたはエスカレーターで元町中華街駅まで降りれるのは楽だと思う。最初から往復するのがお勧めに違いない。

神奈川近代文学館

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