加島祥造の『老子と暮らす 知恵と自由のシンプルライフ』(光文社知恵の森文庫、2006年)を朝からなんとなく読んでいる。
加島祥造が座談のなかで自分を語ったことが本になった。文庫なのに文字が大きくて見やすいのが老眼に優しい。
「情報には、二種類あるんです。「自然情報」と「人工情報」の二つです。
このうち「自然情報」とは、自然がもたらす情報であり、おもに肉体の感性と感覚を通して体に入るものといえます。「人工情報」は、知識や技術などの人工的な人工で、おもに頭を通して入る情報といえるでしょう」(P186)。
「自然情報」は「おもに肉体の感性と感覚を通して体に入る」ものとしているから、五根から入る五識と考えられる。「人工情報」は「おもに頭を通して入る」ものとしているから、第六識の意識の世界と考えられる。
「自然情報」と「人工情報」を受け取る割合が人により、人生の中でも違うという図(P197)に目を惹かれた。
生まれたときは「自然情報」が全てで、成長するに従い「人工情報」が多くなる傾向が塾年まであり、塾年以降はまた「自然情報」が増えてくる。加島祥造が厳密に使っているわけでもないようである。自分が社会の中で生きるための情報に囲まれていることに気がつけばよくて、朝に散歩して小鳥の鳴声に傾けて、森の空気を吸い。冷めたい水を手で掬うことで「自然情報」に触れるのだと思う。
塾年の定義は明らかにしていない。しかし、壮年を過ぎ塾年を既に迎えたと思っているのは、本を読むことよりも、小鳥の囀りに耳を澄ませ。水辺に出て、ゆく川の流れを見ている時間が増えたのだ。人間が作り上げた都会の人工的な世界に飽きていたのかも知れない。
客至汲泉烹茶(客ノ至レバ泉ヲ汲ンデ茶ヲ烹ル)
蘇東坡の「賞心十六事」から加島祥造はふとこの一句を書初めにした(P21)。これは画趣ある世界である。
読書も加島祥造の詩を読むようなものでありたいと思う7月の明るい朝だった。
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