古勝隆一氏の『中国注疏講義』(法藏館、2022年)の第十講『論語』の注を読むは八佾篇「与其媚於奥」章を扱っていた。ここで「奥」は「内」の意であり近臣であると何晏の『論語集解』の孔安国の説が引用されていた。衛の大夫である王孫賈から王の近臣に媚びるより執政である私に媚びた方がよいと「奥」と「竈」のことわざを使って仄めかされた孔子が、「天」から罰を受ければ衆神に祈っても仕方がないと拒絶したという。衆神とは奥の神(近臣)や竈の神(執政である王孫賈)のことだという。「天」は君主に喩えられている。
金谷治の『論語』(岩波文庫、1999年)がすぐに取り出せないので、子安宣邦氏の『思想史家が読む論語』(岩波書店、2010年)を見てみる。第十三章は索引から99頁である。家の奥の神を君主として竈の神を権臣としていた。したがって、君主に媚びるよりも権臣に媚びるのはどうかというわけだ。「天」は「天帝」としている。媚びることをしたら天帝に罰せられるというわけだ。いかにも「新注」的な解釈だ。
「古注」である孔安国の解釈の方が面白い。王孫賈が「奥」でなく「竈」に仕えるのはどうかと仄めかしたのに対して、孔子も「天」を君主に喩えて、「奥」や「竈」に媚びるという罪を犯すと「天」にも喩えられる衛王に罰せられると拒絶したとするのは一応筋が通っている。尤も孔子が「奥」や「竈」の喩えの意図を知って端的に拒絶した言い方に含みはなさそうな気もする。
いずれの解釈も、孔子が仕えるために媚びることはしないということに変わりはないが、「天」を「天帝」と固定的に捉えるよりも君主と喩えたという解釈が古注として重んじられてきたのは意外だった。古勝隆一氏も何晏の『論語集解』からこの章を選んだのはそれなりの意図があると思うのである。朱熹の『論語集注』以降は「天」は「理」と固定されてしまい解釈の幅を狭めていると思うのである。
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