積読本が始末に困るのは読む順序という最大の問題を先送りにする点である。人生の有限性を意識する高齢者となると、読書は娯楽の一つでしかない。気分が乗らなければ、他のことをするし、そのうち読むだろうと放っておくと、移り気な私はまた本屋で気になった本を手にして、積読にしてしまうのである。
実務書であれば、頁をめくってみれば、どのように読む本かある程度わかってくる。自分の知識の足りないところも見えてくる。しかし、思想と私が分類している書物群は、著者の問題意識がすぐにはわからないことが多く、どう読むかも手探りの状態が続く。ノートをつけながら読み始めると大概、途中で挫折するのである。
本を買う前から読み始めて、買ったらすぐに読んでしまえるような小説とは違って、思想をそのまま語る本は、著者の思考を批判的に吟味するためにもこちら側にフレームワークが必要になる。ソクラテスのように議論できる人はそうはいない。過去の知識を吟味しなければ、自分が無意識に考えているフレームワークで判断していることになる。無自覚であることは自分の普段使っている語彙というものから明らかであって、人と話をするときは、定義が緩くなっている。これはお互い様であって、一方的な主張しても何の解決にも役立たない。
著者の主張の受け入れられるところは受け入れて、疑問があるところは疑問として残して本を読み続けるしかない。定義をし始めると終わらない(暫定定義)のである。
自分の世界観はこうだと思っていたことすらも、本を読んでいるうちに、違ったものになっていく。自分が変わったと思うのは自分を知ることである。
積読は何をどう読むかを先送りにする。確かに、優先順位を付けることは経営の最重要課題である。人生の経営においても同じことがアナロジーとして言えるのかもしれない。しかし、経営には目的があるのに対し、人生には目的はないと考えている私には優先順位は響かないのである。いつだって今日の献立を考えているのである。
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