第2章「虚空」
1 虚空蔵
「なぜ、室戸の岬であり、虚空蔵菩薩であったのか。それを理解するために、まずは室戸の岬を実際に訪れてみなければならない」。
室戸岬に行くことを死ぬまでにしたいことの101に入れることにする。
室戸岬の描写は地球物理学的である。
(以上、生命発生の過程は、中沢弘基『生命誕生』講談社現代新書、その他をもとに再構成した)(p.293)。
虚空蔵求聞持の法
(以下、虚空蔵求聞持の法については、園田香融、竹内信人、堀内規之、武内孝善の諸論考を参考にしており、詳しい書誌は、次回、第三章「華厳」の末尾に記す)(p.293)。
「『三教指帰』の「序」では、虚空蔵求聞持の法を修すれば、どのような効果が得られるのか(得られたのか)、空海自身が詳細に証言してくれている」(同上)。
『虚空蔵求聞持法』冒頭の「陀羅尼」である。
南牟阿迦捨掲婆耶唵阿唎迦麼唎慕唎莎嚩訶
「ノーボー アンキャシャキャラバヤ オン アリキャ・マリ・ボリ ソワカ」と読むそうだ。
昔、哲学者の上山春平氏が『虚空蔵求聞持法』を修した話を本で読んだことがあるが、具体的なことは何も書いていなかった。百万遍「陀羅尼」を唱えることしかわからなかったが、安藤礼二氏はただ唱えるだけでなく作法を解説している。荘厳の儀式の上で「陀羅尼」というか「真言」を唱えるのだ。
「聖なる名前を、聖なる言葉で唱え続けることによって、その聖なる存在と一体化する。聖なるものとの一体化は、なによりも心の内に形成される聖なるもののイメージ、想像力が形づくる虚空蔵菩薩のイメージと、心の外に出現してくる現実の諸物によって形づくられた虚空蔵菩薩のイメージとの一体化によって果たされる。内的なイメージと外的なイメージ、想像力と物質が一つに融け合うのだ」(p.295)。
『虚空蔵求聞持法』を具体的にたどり直す。
(以下、善無畏の原文に沿いながら、薗田香融と堀内規之の読みを一つにまとめていくが、その際、虚空蔵菩薩を荘厳する「もの」たちの詳細、および儀軌の一部は省略する)(同上)。
2 如来蔵
「弘仁一四年(八二三)、空海は朝廷に『真言宗所学経律論目録』を撰進する。真言を学ぶ者たちが必ず読み、研鑽を深めるべき経、律、論の三学を定めたものである」(p.307)。
安藤礼二氏は「論」について『金剛頂発菩提心論』と『釈摩訶衍論』の二部だけであると指摘する。
「いずれの論も、その著者が龍樹菩薩(龍猛菩薩、真言付法八祖のうち第三祖)に仮託されている」(同上)。しかし、サンスクリット原本もチベット語訳も伝わっていないことから偽論といわれているという。
空海は何故これらの論に依拠したのであろうか。
「それでは、『菩提心論』と『釈摩訶衍論』に共通しているものとは一体何であったのか。おそらく、それは「如来蔵」という言葉に集約される世界観である。あるいは、「真如」とは「如来蔵」であり、またそれゆえに「法身」であるという宣言の果断さ、であろう」(pp.308-309)。
安藤礼二氏は「如来蔵」で空海の哲学を読み解こうとする。
そのために、「『三教指帰』から『秘密曼荼羅十住心論』まで一貫して参照されている『大乗起信論』を、あらためて読み解いていかなければならないであろう」(p.314)という。
『大乗起信論』は岩波文庫版を手に入れて読んでもわからない予感がしている。井筒俊彦『意識の形而上学ーー東洋哲学覚書『大乗起信論』の哲学』(中公文庫、2001年)を読んだ時は、わかったような気になったが、井筒俊彦の分節理論で読んだつもりになっていただけだった。この安藤礼二氏の論考を理解するのに使えていない。
中観派と瑜伽行すなわち唯識論者の対立の把握が十分でないのであろう。この総合を説く『大乗起信論』を読むのはまだ早いのか。
この論考を読むのは暫く休むことにする。
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