中世すみだの歴史散歩

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特集展示中世すみだの歴史散歩 すみだ郷土文化資料館 2021年10月2日(土)〜2022年2月6日(日)

「中世の隅田川の流路は、現在の首都高速向島ランプ入口附近で、押上方面へ流れる古川と浅草寺方面へ流れる宮戸川(現在の隅田川)に分岐していました。そして、河口付近には牛島をはじめとした砂洲が点在していました」(パンフレット)。

分岐のところは向じま達鮨の右手である。押上方面へは細い道になっているが、ここが川床であればこの辺りの地盤の緩いのは分かる。

『吾妻鏡』によると源頼朝が隅田宿(すだのしゅく)に軍勢を集め、船で隅田川を渡った先が石浜と展示の解説にある。隅田宿は梅若伝説が残る水陸交通の要衝であった。

五味文彦・本郷和人編『現代語訳吾妻鏡1頼朝の挙兵』(吉川弘文館、2007年)で確認する。

武衛(源頼朝)は治承4年9月17日上総国から下総国へ向かう。下総の国府で千葉常胤が合流した。
19日上総権介広常は軍勢二万騎で隅田川辺りに参上した。
10月1日石橋山の戦いで散り散りになった者たちの多くが、武衛(源頼朝)の鷺沼の宿所に参向してきた。
2日武衛(源頼朝)は(千葉)常胤・(上総)広常等の船に同乗し、大井川・隅田川を渡ったが、軍勢は三万騎に及んだ。
頼朝の乳母である故八田武者宗綱の息女が、特にかわいがっている末子を連れて隅田宿に参上した。

『現代語訳吾妻鏡』の記述は行動が読み取りにくいが。頼朝は9月17日以降に鷺沼(習志野市鷺沼)にしばらく滞在して、軍勢の集結を待っていた。19日に上総権介広常が隅田川辺りに参上したとして、遅参を叱られるが、隅田川と鷺沼では7里以上離れている。10月2日に大井川(太井川の誤り、現在江戸川)と隅田川を船で渡り武蔵国に赴いた。その朝隅田宿に参上した寒川尼が連れてきた小山七郎宗朝を自ら元服させている。

確かに広常の軍勢は隅田川辺りにいたであろうが、頼朝は鷺沼宿を経って太井川(江戸川)、隅田川を1日で越えた上、元服の烏帽子親までしていることになる。軍勢の記述は大袈裟としてもこの行軍の記述は省略が多くて理解し難い。

3階は伝統工芸展「すみだ粋の世界」2021年9月18日(土)から10月31日(日)が開催されていた。

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