関幸彦『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』中公新書、2021年
「刀伊の入寇」は寛仁3年(1019)に起こった。藤原道長の時代の話である。刀伊(とい)は女真族に対する高麗の人々の呼称である。「刀伊の入寇」の入寇はモンゴル襲来を江戸期の水戸学が元寇といったのと同じく、近代日本の「国防理念を前提とする価値観が付与されたものであり、よりフラットな表現からは「刀伊の来襲」ないしは「刀伊事件」が妥当と思われる」(iii頁)としている。「当時の史料には『朝野群載』などでは「異賊」などとしか表記されていない」(同上)という。
高校の教科書で「刀伊の入寇」というのは簡単に触れられただけだったので、詳細を知る上でよい機会であると思い購入してみた。『中先代の乱』(鈴木由美、中公新書、2021年)など、ニッチなものが取り上げられるのは中世ブームらしい。王朝国家のものはどうなのかと思ったが、本屋でまとまって展示してあったので意外な気がした(注1)。新刊本はそういうものかも知れない。
刀伊の入寇の前に、延喜14年(914)に三善清行が醍醐天皇に提出した「意見封事十二箇条」が当時の防衛白書のようで面白い。『本朝文粋』巻二にあるというので、いつか読んでみたい。新羅の海賊の話を『三代実録』や『古事談』で一々確認するのもやはり楽しい。
古代史は史料が翻刻されているし、元々少ないので当たる史料はほぼ決まっている。中世史は史料がアナログのままが多いので崩字が読めないと手が出ない。今の実力では江戸の板本を読むのがせいぜいなので、そういう生活に向けていきたいが、好奇心は時間を奪うばかりである。
『古事談』では宇多天皇の時代に利仁(としひと)将軍が新羅討伐に出向いたが海上で急死した。円珍が入唐の時に新羅に頼まれて調伏したとある。評を読むと『今昔物語集』巻一四第四五では文徳天皇の時代で調伏したのは唐の法全阿闍梨(円珍の師)であるのはその場にいた円珍から聞いた話としている(注2)。
この利仁将軍は芥川龍之介の「芋粥」の元になった『今昔物語集』巻二六第一七でも出てくる。『今昔物語集』もすっかり忘れてしまっているし、あれもこれも読みたくて気がへんになる。
(注1)三省堂ソラマチ店
(注2)『古事談 上』(伊東玉美校訂・訳、ちくま学芸文庫、2021年)の第三巻僧行第一五「利仁、頓滅の事」(454頁)
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