『唯脳論』(1998)

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養老孟司『唯脳論』ちくま学芸文庫、1998年、2003年第9刷

書誌情報

『唯脳論』(青土社、1989年)を文庫化した。

解説 澤口俊之氏

「ヒトが人である所以は、シンボル活動にある、言語、芸術、科学、宗教、等々。これはすべて、脳の機能である」(P011〜012)。

S. K. ランガーの『シンボルの哲学』(2020年)もその観点から読み直そう。

養老孟司氏は「唯脳論」の立場を以下のように説明する。

「ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう」(P012)。

そして、唯脳論は心身の二元論に対し解答を与えるという。

「脳と心の関係の問題、すなわち心身論とは、じつは構造と機能の関係に帰着する、ということである」(P028)。

「脳という物質から、なぜ心が発生するのか。脳をバラバラにしていったとする。そのどこに、『心』が含まれていると言うのか。徹頭徹尾物質である脳を分解したところで、そこに心が含まれるわけがない」(P028)。

「これはよくある型の疑問だが、じつは問題の立て方が誤まっていると思う。誤まった疑問からは、正しい答が出ないのは当然である。次のような例を考えてみればいい」(P028)。

「循環系の基本をなすのは、心臓である。心臓が動きを止めれば、循環は止まる。では訊くが、心臓血管系を分解していくとする。いったい、そのどこから、「循環」が出てくるというのか。心臓や血管の構成要素のどこにも、循環は入っていない。心臓は解剖できる。 循環は解剖できない。循環の解剖とは、要するに比喩にしかならない。なぜなら、心臓は「物」だが、循環は「機能」だからである」(P028)。

「たとえばこの例が、心と脳の関係の、一見矛盾する状態を説明する。脳はたしかに「物質的存在」である。それは「物」として取りだすことができ、したがって、その重量を測ることができる。ところが、心はじつは脳の作用であり、 つまり脳の機能を指している」(P028)。

「したがって、心臓という「物」から、循環という「作用」ないし「機能」が出てこないように、脳という「物」から「機能」である心が出てくるはずがない。言い換えれば、心臓血管系と循環とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。それだけのことである」(P030)。

「心を脳の機能としてではなく、なにか特別なものと考える。それを暗黙の前提にすると、 「脳をバラしていっても、心が出てこない」と騒ぐ結果になる。それは、おそらく間違いである。「出てこない」のは正しいのだが、その意味で言えば、循環だって、心臓から出てくるわけではない。心が脳からは出てこないという主張は、じつは「機能は構造からは 出てこない」という主張なのである。それは、まさしくそのとおりである。ただし、それは、心に限った話ではない。心は特別なものだという意識があるから、心の場合に限って、 心という「機能」が、脳という「構造」 から出てこないと騒ぐ」(P030)。

「では、なぜヒトは、脳つまり「構造」と、心つまり「機能」とを、わざわざ分けて考えるのか。それは、われわれの脳が、そうした見方をとらざるを得ないように、構築されているからである。唯脳論は、そう答える。これは逃げ口上ではない。生物の器官について、構造と機能の別を立てるのは、ヒトの脳の特徴の一つである。それは、脳の構造を見ればすぐにわかる」(P030)。

長々とメモしてきた。「機能」と「構造」という見方は目からウロコであった。

脳は末梢神経と繋がっており脳以外の身体とは、明瞭には分離できないため、「唯脳論は、じつは身体一元論と言ってもいい」(P041)という。

養老孟司氏が俄然面白くなって来た。

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