赤坂憲雄『東西/南北考』岩波新書、2000年、2010年第7刷
「この弧状なす列島の民族史をめぐって、いま、再審のときが訪れようとしている」で始まる本書は、「ひとつの日本」から「いくつもの日本」への転換であり、「たとえ粗削りなものではあれ、「いくつもの日本」をめぐる大きな見取り図を描いておきたい」という。
赤坂憲雄氏は相撲を例に東/西の視点を提示する。我々は、力士が東方と西方に分かれていることになんの違和感も感じない。呼び出しが東方の力士の四股名を読み上げ、西方の力士の四股名を読み上げると、東西に分かれた力士が丸い土俵にあがる。
「近江の国より東を出身とする力士を東方、西を出身とする力士を西方と名づけたのは、聖武天皇の時代(724〜749)であったらしい」というが、今では、五月場所をみても明らかなように、東の横綱は白鵬(モンゴル)、西の横綱は鶴竜(モンゴル)、東の正大関は豪栄道(大阪)、西の正大関は高安(茨城)とおよそ、出身は意味を失っている。
「御国」を背負った力士たちによる服属のパフォーマンスについて「天武紀十一(682)年七月三日の条には、飛鳥の都にたくさんの隼人がやって来て、貢物を献上し、大隅の隼人と阿多(薩摩)の隼人が相撲を取った、という記事が見える」という。
関ヶ原の戦いは東軍と西軍だ。東/西は我々の頭に刷り込まれている。しかし、南/北は赤坂憲雄氏に言わせると異種格闘技だそうだ。「それは、蝦夷・アイヌ・琉球といった、少なからず種族=文化的な断層を孕んで対峙する相手との、いわば植民地支配のための戦争である」という。確かに、南北は南北朝時代くらいしか使われてない。これでは「いくつもの日本」になりそうもない。
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