『秀吉の大仏造立』(2008)その5
河内将芳『シリーズ 権力者と仏教 秀吉の大仏造立』法藏館、2008年
第4章 大仏鎮守の建立
善光寺如来を甲斐国から呼び寄せる理由がよく分からなかったが、第4章を読むと、すでに秀吉の実弟の豊臣秀長が病のときに、大和国多武峰寺から大織冠(藤原鎌足の木像)が秀長の居城郡山城へ遷座されられていたことがあったことが分かった。秀吉の病も常態となったことから、尋常でない力のある善光寺如来が遷座させられたのだろうことは推測される。
さて、秀吉が亡くなる前日に善光寺如来が信濃国善光寺へ帰座していった。本尊と施主である秀吉がいなくなって後に皮肉にも大仏殿は大仏堂供養がおこなわれた。秀吉は慶長3年(1598)8月18日に薨去し、伏見城に遺体が安置され、その死は半年伏されたという。
秀吉は神になるのである。新八幡として大仏鎮守として祝うために、急ピッチで社殿の建築が進められた。従って、秀吉の葬礼は行われなかったのである。慶長4年4月に隠密裏に阿弥陀ヶ峰に秀吉の遺体が移された(『義演准后日記』)。河内将芳氏は洛中洛外図にある阿弥陀ヶ峰の頂上の堂舎を廟とみている(P182)。
4月16日には仮遷宮が、そして翌17日に「豊国の大明神」という神号を朝廷より奉られた。なぜ新八幡でなく豊国大明神となったのか。新八幡では勅許が得られなかったことや、吉田兼見の影響があったと河内将芳氏はみている。豊国という言葉には宣命に書かれた「兵威を異域の外に振るい、(以外に略)」という「武威を下敷きにしたような意味合いがこめられていた」と考えている。
河内将芳氏は秀吉を新八幡として祝うことは、秀吉本人以上に残された人びとにとって必要で、その人びとのなかから徳川家康を除く必要はないという(P189)。
河内将芳氏は「秀吉を神として祝うこと=神格化の問題を「自己」神格化としたり、また「みずからの意思によって」神になったとする、これまでのみかたにはやや慎重である」(P189)。
本書では、「武威の体現者である秀吉を八幡信仰とからめつつ神として祝うことは、豊臣政権にとって危機的な状況に対応する施策として必要かつ緊急な選択だったと考えておきたいと思う」(P190)としている。
豊国社は大仏鎮守でなくなってしまったが、大仏は金銅仏として再建されはじめた。七重塔や講堂・回廊の計画があっという。東山大仏が東大寺のかわりとして扱われていたという(P192)。
その大仏殿も大仏の鋳掛の火から焼け落ちてしまったのは慶長7年(1602)12月のことである。
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