斎藤茂吉『万葉秀歌(上)』岩波新書、1938年、2016年改版109刷
斎藤茂吉の参照注釈書略表を見ると天台僧の仙覚(1203-1273)の『万葉集抄』が最初で、次は江戸時代の北村季吟(1625-1705)の『万葉拾穂抄』と間が開いていた。万葉集は古代・中世を通じて読まれて来なかったと言える。万葉仮名が難読だったことと、古今集・新古今集の歌いぶりとは違い素朴な歌と受け止められていた。一般には万葉仮名は読めないので、万葉集が普及するのは、万葉仮名を当時の言葉遣いに直す必要がある。江戸時代まで待たなければならなかった。
万葉集が一般に読まれるようになるのは、明治になってからと言って良い。
明治近代国家が「国語」を作り、「国民教育」をする過程で、『万葉集』を再発見したと言えるか。追求してみたい課題である。少なくとも、『古今集』は伝統的な文芸に影響を与えていることを認めることは容易だが、『万葉集』において、それを求めるのは難しいのではないか。柿本人麿も古今集的な文脈で歌仙として知られていた。長歌を評価されたわけではないし、柿本人麿の歌として『万葉集』の作者未詳の歌が、『拾遺集』に載り、藤原定家が『百人一首』に選んでいるくらいである。
『万葉集』はその成立からして不明な点が多い。『万葉集』をどう読むか。それが一つのテーマである。
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