『貞慶『愚迷発心集』を読む』(2004)

断片記憶

多川俊映『貞慶『愚迷発心集』を読む』春秋社、2004年、2012年第2刷

解脱上人貞慶(1155〜1213)の『愚迷発心集(ぐめいほっしんしゅう)』を手にしたのは、『はじめての唯識』(2001)が分かりやすかったせいもあった。

本書は第1部が解脱上人貞慶の時代と愚迷発心集の概要及びキーワード

第2部が愚迷発心集の解説

愚迷発心集の書下し

この書下しがスラスラ読めることが目標だ。本文解説では前編9と後編9に分け、訳文、原文、解説がある。原文は書下しにルビが振ってあるので読めるが、最後にまとめた『愚迷発心集』本文(書下し)にはルビがないので、実力が試される。

解脱上人貞慶は藤原通憲(信西入道)を祖父に、藤原貞憲を父として生まれた。

南都で法相宗を学んだあと、笠置寺に隠遁する。晩年は海住山寺に住んだ。笠置寺はまだ行ったことがない。磨崖仏を見たいと思う。海住山寺は行ったことがある。京都の宝ヶ池から車で行ったのだった。乗務員さんに言われて五重塔の先にある榊の大木を探しに行ったのだが、見つからなかった。

笠置寺に隠遁した貞慶は世俗性が指摘される。南都を代表する僧侶として世俗に関わったことを略年譜から著者はあげてくる。寺院の供養導師を勤めることが多い。貞慶は世俗性に関し明恵上人高弁と対比されるが、「その身の置き所を異にしており、それを同一に論じて比較しても、あまり意味のあることとは思われません」と著者は考えている。なぜなら、「笠置寺隠遁後の貞慶について、興福寺ないし南都仏教の「精神的支柱」とみる見方がありますが、それをいうなら、むしろ貞慶こそが現実の興福寺教学そのものであり、南都教学の動向を担う者、言い換えれば、貞慶とは、まさに南都の教界のど真ん中にいた人だったのです」(P22)。しかも、九条兼実が『玉葉』に「物の用に叶うべきの人」と書いたことを考慮すれば、貞慶が南都仏教の中心として、平家に焼かれた南都の復興に関わらざるを得ない立場であることは世俗を論じる上では忘れてはならない。

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