夕方と朝に風呂に浸かって考えた。
家の風呂場は洗い場こそ、別になっているが、小さい湯船があるだけで、普段はシャワーしか使わない。
泊まった旅館の風呂は温泉ではないが、沸かしたてで貸切であった。槙の湯船を溢れる音が心地よく響く。檜風呂ではないことに後から気がついた。
家では、まず、湯船一杯までお湯を張ることはできないし、手足を伸ばして浸かっていることもできない。一人が毎日使うわけでもないものはシェアして使っていたのだ。旅館という仕組みが不特定の人に使わせることで成り立っている。
所有しなければ、物の置場に困ることもないだろうし、何より部屋が広く使える。必要な時に借りれば良いとなると、何もない部屋が欲しくなる。絵を一枚だけ飾ってみたい。それも所有していなければ、季節毎に変えても、物が増えない。持っている絵は季節があるので、その時期以外の11カ月は仕舞われたままだ。借りることができるのなら、借りたい。しかし、皆が同じように3月に桜の絵が欲しくなると、貸す方も在庫になってしまうかもしれない。そうしてみると、シェアの思想では季節がある物を所有することができないと分かってくる。季節を求めると所有するしかないのかもしれない。もっとも、我々は時を止められないのは自明のことであるので、散らない桜を求めるならば、物として対峙するしかない。
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