昨日の客

断片記憶

不意に現れた男は、ビールを頼んだけで立て掛けたメニーを開こうともしなかった。オススメを書いた紙が灰皿の上に載せてあった。それをチラリと見ていたようだ。相方がビールとお通しを運んでいった。男はお通しを尋ねた。あの気の利かない子は厨房まで聞きに戻って来た。バイトはお通しと本日のオススメについてはインサイダーでよいと思っているが、親方はそこまでは考えていないようだ。

通常ふりの客こそ店にとって重要な客である。常連は手間がかかるが、一見の客をつかむために割烹はカウンターが勝負である。この店は割鮮という中途半端な名前とカウンターのない店づくりである。四人掛けのテーブルに一人の客でも座らせるしかない。日雇いで雇ってくれるのでありがたいが、店の作りと接客方法については深く考えていないようだ。皿を引き上げる度に厨房にいる親方は客の様子を尋ねるしかないが、皿だけで判断しているのだろうか。

一般に店と客の呼吸が合いだすのは3度目以降になるとすると、一見だけ相手すればよい店にしては繁華街からは少し離れている。従って客の波も大きくなり、団体が入れば忙しくなり、昼に雨が降った今夜のように客が来なければ、バイトのホールスタッフは二人して暇しているしかない。

男は本日のオススメの紙をとって注文し始めた。「赤い字は何?」「特におすすめです。」そんな会話が聞こえてきた。週末で店が休みになるので、捌いてしまいたい食材と親方が考えて赤い字にしたのだった。

男は秋刀魚の塩焼きを頼んで、刺身は一切頼まなかった。海鮮料理屋に何を目的に来たのだろうか。

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