永井均『私・今・そして神 開闢の哲学』講談社現代新書、2004年、kindle版
永井均氏は世界の本質について考えることが哲学として残ると考えている。
その議論の一端を見てみよう。
例えば、人間そっくりのロボットを考えてみると、「彼には心が、といっても意識が、といってもなんでもいいが、まあ、そういうようなものが欠けている」としよう。
神さまが、そのロボットに心を与えてやったとする。
ロボットに外見上識別できる変化はなくとも、やはり変化はあったと考えることができるかという問題だ。
ロボット工学者はロボットに心を与えることは原理上できない。神のみが与えることができるとすると以下の結論が導かれる。
「だから、ロボットのこの変化を理解し、そういうことがありうると思った人は神の概念を信じているのであり、(識別できるかぎりではこのロボットと変わりがないはずの)他人たちに心があると現に信じている人は、神が現に存在していることを、つまり神の実在を、信じているのである!」
このロジックは神の概念(全能者という概念)を認めること、「つまり、識別はできなくても理解はできるという領域を認めること。それによって、われわれはある種の超越性を容認している」ことになる。
神がロボットに心を与えることは仮定の話である。仮定の話を聞いて、「識別できないが理解はできる違い」がある考えるのは我々の想像力がそのように働くからなのでろう。
著者はそこに「他我問題」である他人に心があるのかという問題を重ねている。他人に心があることは「独我論」からは知り得ないとされている。しかし、ロボットに心がないことは原理上あきらかであるのに対して他人に心がないことを原理上いうこととは異なるのではないか。仮定の話と現実の話を重ねるのはどうもしっくりしない。
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