- 山内志朗『極限の思想 ドゥルーズ 内在性の形而上学』選書メチエle livre、2021年、kindle版
中世スコラ哲学者がドゥルーズをどう読むのか気になってAmazonしてしまった。
ドゥルーズを語ることによって自分が現れてくる。
「 ドゥルーズを「正しく」紹介することぐらい、ドゥルーズを裏切ることはないように思う。すべて研究し尽くされ私に残されている思想はなさそうだ。私にできることは何だろう。中世スコラ哲学者としてドゥルーズを語ることぐらいだ。同時に私は中世哲学の斬新さを信じている。三位一体論に登場する父・子・聖霊という三つのペルソナを考える場合、ペルソナは人格という人間モデルを抜け出して、「自存するものとしての関係」という先端的な論点を含んでいる。聖霊論はメディア論と結びつくし、文字的記号を基礎とした記号論ではなく、電子的シグナルや記号としての画像をめぐる技術論と結びつく。事物としての存在に拘束されないオブジェクトという発想や、ハビトゥス論(身体的無意識的な能力や観念形態)など、発掘してそのまま活用できる素材はやまほどある。
ドゥルーズもそういった素材を発掘し、自分の哲学の中に率先して組み込んでいった哲学者だ」(第1章 ドゥルーズという烽火)。
しかし、最所から情報が多すぎて、足が止まる。
「〈此性〉はドゥルーズにおいておそらく一番基本になる概念だ」(同上)。
〈此性〉については比喩で説明している。美しい。
「無限なる実体の海の浜辺に打ち寄せるリトルネロの波、有限様態としてのわれわれはそれぞれ一つの波なのだ。無限性とは強大なる力というよりは、波が無限に繰り返されることに現前している。
〈此性〉とは内在平面を吹き抜ける風のことだ。そして〈此性〉は内在性の浜辺に打ち寄せる一つの波なのだ」(第7章 無人島と可能世界)。
哲学とは何かは常に問われる。
「私が思うに、哲学は、他の人から理解され、評価されることを目指してなされる営みではない」(第1章 ドゥルーズという烽火)。
「哲学とは新しい概念の創造だ、ドゥルーズはそう語る」(後書き)
山内志朗氏は、どう考えているのか。
「哲学は概念を使いこなすことを含むが、それは自分で練習し、訓練し、習慣的能力(ハビトゥス)に定着させるしかない」(同上)。
ドゥルーズのいう概念とは何か。
「概念とは何だろう。概念とは、かなり特殊な仕方で事物や出来事に関わることだ」(同上)。
「かなり特殊な仕方」とは何か。
こうやって自問自答の形にしないと頭に入らない。
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