歩くことは狩猟生活では当たり前だった。都市生活は現代人から歩く力を奪っているという。江戸時代の紀行文を読むと、一日の移動距離が半端でない。今では歩くことのメインは通勤・通学・ランチ・買い物くらいで、歩くといってもどこまでが散歩になるのかはっきりしない。この間のように、ランチで歩いていて、ふと北十軒川の散策路に降りれば散歩の気分だし、裏千家の家元が「ひととき」でたまに書く西陣や賀茂川への移動は散歩話に違いないし、祇園の小路を料亭へ行くのも散歩の延長になる。しかし、宝ヶ池の近くのホテルに泊まるのは関東人にとつては旅行だが、宝ヶ池を一回りするのは散歩である。朝などランニングしている人も多い。だから、散歩ということは、左・右ということとあまり変わらなくて、皇居の東御苑を歩くのも散歩だし、京都のホテルの周りも歩くのも散歩に違いない。すると散歩というものは場所に対して相対的なものでしかなくて、ぶらぶら歩くことであれば、どこ行っても散歩であるので、四都手帖で旅の時間と散歩時間を分けているのも怪しくなるが、旅の時間という集合と散歩時間という集合を考えればよくて、その共通部分が宝ヶ池の朝の一回りである。散歩時間は近場の活動記録である。
散歩の原理
断片記憶
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