何を読むのか忘れることもある

断片記憶

朝起きて、今日は何を読もうかなと思うような幸せなときはもう来ないのだろうか。睡眠が劣化しているばかりか、読書も劣化しているようだ。

朝起きてパンを食べて辻邦生の『パリの手記Ⅰ〜Ⅴ』(河出書房新社、1973年〜1974年)を読んでいた頃は随分と幸せな時間を過ごしていた気がする。フランス綴じの本をペーパーナイフで切ったところまでが読んだところになる。何を読むか悩むことはなかった。事務所の本棚は辻邦生と森有正が並んでいた。

今なら、読む度に出てくる知らない言葉をスマホで検索するから、集中力も続かないだろう。まして、スマホにメモしながら読むので、読むスピードも遅い。徹夜して読むこともない。

そして、今、本当に読みたい本が何か分からない。本屋の棚から新刊本を取ってみるけど、パラパラしているだけで、そのうち他の事を考えている。

そうだった、白川静『続文字講話』(平凡社、2007年)の金文Ⅱを読むつもりだった。しかし、事務所から持ってきた宮坂宥勝・梅原猛『仏教の思想9 生命の海<空海>』(角川書店、1968年)の月報で瀬戸内晴海「地獄の表現」を読んだりしていると、そうだまだ寂聴さんではなかったと妙に納得している自分に気がつく。

帰りに買った山田朗『大元帥 昭和天皇』(ちくま学芸文庫、2020年)の解説を読んで、伊藤之雄『昭和天皇伝』(文藝春秋社、2011年)を思い出して本棚から引っ張り出したりした。気がつけばもう寝る時間である。そんな訳で第三話は読み忘れてしまった。

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