「複写時代の仕事 鼎談」(1972)

断片記憶

寺山修司(司会)、横尾忠則、高松次郎「複写時代の仕事 鼎談」『季刊フィルムNO.12』フィルムアート社、19727

Le Petit Parisienで誰かから借りた雑誌をオーナーさんが見せてくれた。特集がメディアの共有と複写の思想で、鼎談がいいとオーナーさんがいうで借りてきて読んだ。

当時はまだデジタル時代ではなく、ゼロックスの時代だったが、オリジナルとは何かという問題意識は今とそう変わらないというか、今よりも見えていた。

寺山修司氏が作品には機能性がないといった発言を受けて、横尾忠則氏がデザインには伝達しなけれがいけないのでコミュニケーション機能があると発言した。

「去年ぼくが作った東急のクリスマス・セールのポスターには、実は蛾なんか1匹も描いてないわけよ。ところが寺山さんは、あれは蛾だと言う。そのへんのズレが面白いね。でも、もしかしたら蛾を描いたかな、というような気にもなるね。そのくらい、作るほうも見るほうも曖昧なんだな」(p.75)。

「複製されたポスターはまた別のところでお目にかかると思って、よく見ていないんだよ。だから、ぼくだって、どうしても蛾を描かなければならないという必然性もなく、蝶だって蟻だっていいんだ。あっちこっちで見た映像がごちゃごちゃになって最終的には、結局、自分のイメージのポスターを作っているのだと思う」(pp.75-76)。

「例えば狸を描いて、見る側にどうしても狸だと思ってほしいと考えているデザイナーがいたら、そんなのはおかしい。狸が、見る人によって狐はでも狸にでも化けて見えちゃうんだから、作る人間はこだわる必要がない。自分がコミュニケーションしたいことにだけこだわっていると絶望の連続だ。コミュニケーションの機能が、そこではき違えられたり、すり替えられたりする曖昧さといったところが現代のコミュニケーションの状態で、みんな欺されて結構よろこんでいるんです」(p.76)。

長々と引用したが、作る側と見る側の関係性に言及されている点に注目したい。何がオリジナルとなるかは人との関係性にある。コピーといえども人との関係はそれぞれ違ってくる。デジタル化は複製、複写技術がデジタルのオリジナルとコピーの違いを区別できなくしたが、NFTはデジタルのオリジナリティを求める指向である。私などは、オリジナルなものは、作家の作品以外は、書票を貼った本だけで、残りは大量生産によるコピー品であり不満はない。

ついでなので、『横尾忠則全ポスター』(図書刊行会、2010年)で1971年のXMAS PARADISE(東急百貨店)7枚のポスターを見ると飛び魚、蝶々、蝙蝠や小さくてわからないものが飛んでいる。寺山修司氏が蛾と見たのはどれなのだろうか。Wonderland(下島)も南国と女性の裸体なのでこっちなのかもと思ったりしたが、これは蝿にしか見えない。YUMEYAのポスターも同じ年のもので、こちらはアブが飛んでいる。

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